私の永平寺修行
ここで衝撃的な事実をぶちまけます。
ガッカリしないでくださいね。いきますよ。
坐禅の要術(ようじゅつ)は たった独りでみつけるものです。
誰も教えてくれません。どこへ行っても一緒です。
やっぱり、ガッカリしちゃいますよね。ホントのことを言うのは私もつらい…。
お家(うち)で坐禅しても、日本で最も有名な禅道場・永平寺で修行しても、
達磨大師の禅を伝えた中国・少林寺に行っても、
お釈迦様の悟りをひらいたインド・ブッダガヤで7日間坐禅をしても一緒なんです。
それなのに、禅の修行者達は今でもあちらこちらで彷徨(さまよ)っています。
ご存知ですか?雲や水をつかむようなことをする人たちだから、
禅の修行僧のことを雲水(うんすい)と揶揄(やゆ)するようになったんです。
(嘘です、ごめんさない。)
【祖師山頂の喩話】
「無心」「只管打坐」のためにすべきことは独りずつ違います。
しかも、それは禅者がたった独りでみつけなければならないものです。
どんなに優れた禅の師匠でも発見の手助けをできるにすぎません。
ちょっとはマシな坐禅を始めれば、
どんな薫陶(くんとう)よろしきを得ても、どれほど経典を読み散らかしても、
教わったり、学んだりするだけでは、先に進めなくなる地点がすぐにやってきます。
すべてを自分ひとりで切り拓かなければならない。
どうにも道とは呼べない うっそうと草木の茂る仏道が目の前に現れ、
その先に高々とした山脈(やまなみ)が聳(そび)え立つ地点に立つわけです。
そして、その道は、禅者が通り過ぎるたび、
一陣の風のもとに今来た道を草木で覆(おお)い吹きとじてしまいます。
先輩も師匠も自分専用の仏道を切り拓いてゆくだけで精一杯ですから、
どうして自分以外の誰かを導くことができると言うのでしょう?
分け入っても、分け入っても、みえるのは、
頭上の抜けるような青い空と目の前に聳え立つ山脈(やまなみ)だけです。
頼れる先輩も、助けてくれる師匠もいない。
われひとり、草木の茂る道の途中にぽつりと迷ってしまった心細さに、
はらはらと涙を落としながら見上げた遥かな山の頂(いただき)に、
何やら ゆらゆら うごめいているものが見えます。
涙をぬぐい、眼を凝らしながらその頂をみやると、そこに立って
手を振っていらっしゃる方々の姿が小さくとも確かにみえるではありませんか。
その方々こそ、紛(まぎ)れもなく、われわれの祖師に違いありません。
こうして蔭(かげ)ながら見守っていてくださる祖師方の慈悲に感謝を捧げつつ、
祖師の示して下さった頂を目指して、禅者は またひとり歩き出すのです。
禅者の修業とはこのようなものではないでしょうか?
【坐れば ぐるり 永平寺】
このことに関して、悟りをひらいたお釈迦様の呟(つぶや)いた言葉が残っています。
みずから悟ったのであって、誰を(師と)呼ぼうか。(法句経353)
さらに、この言葉から こう読み取ってはいけませんか?
人間には、ひとりひとりに専用の仏道がある。
私は、こう読み取ってしまったものですから こうも考えます。
わが人生そのものが悟りに通じる仏道だ。
残念ながら私には、悟りの印可をもらいに永平寺へ修行に行く予定はありません。
でも、坐禅を行じるこの脚下(きゃっか)こそ、永平寺であり、少林寺であり、
悟りをひらいた末には、ブッダガヤになると考えているのです。
わが脚下 坐れば ぐるり 永平寺 (布施仁悟)
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本文「法句経」の引用はここから。 こなれた現代語で読める法句経です。 私の仏教に対する誤解は、この本で初めて解けました。 |
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コメント
ブログの衣替え、いい感じですね♪
永平寺には観光に行きたいなぁ~。
投稿: おかめ | 2009年6月24日 (水) 12時33分
おかめさん。コメントありがとうございます。
ブログの衣替えで、以前より読み易くなったとおもいます。
もしも、永平寺へ道場破りに行くならお供しましょう。
投稿: 布施仁悟 | 2009年6月30日 (火) 12時46分
ほんと、シンプルでフレッシュな感じがよいね~。
道場破りぃ!?
まいいか、その間に、精進料理でもいただいてます。
投稿: おかめ | 2009年6月30日 (火) 13時00分