道東青春18きっぷの旅5

連れの“おかめ”は激怒した。

その神経を逆なでした傍若無人な蛮族の徒こそわが母親にほかならない。

えびすや夕食 ねむろ金毘羅神社例大祭

昨日は、何はともあれ、予定通り民宿に到着することができた。

脂のたっぷりのった旬の大型さんまの塩焼きや、
名産の牡蠣や花咲ガニをあしらった心づくしの料理に舌鼓を打った。

そして、遅い食事を済ませ、風呂に入ってから、
偶然に催されていた夏祭りの出店(でみせ)を練り歩いた。
夜露にあたり、祭りの賑わいを楽しみながら、
若かりし日の夏祭りの思い出を語り合ったのだ。

思えば昨日の根室の夜は、確かに、われわれに人心地をつけてくれたのである。

釧路行5624D 花咲線の湿原

ところが今はどうだ。状況はまるっきり一転している。

ため息まじりに「どうして?なんで?」と繰り返すおかめに、
私はカシューナッツを手渡した。

苛立ちの原因が、朝食を食べていない空腹のせいならば、
これで少しは緩和されるはずだ。

ところが、ペットボトルのお茶を飲み干したおかめは、
ひと息ついて、すぐにまた「どうして?なんで?」を繰り返し始めた。
ナッツが足りなかったのだろうか…。

この釧路行5624Dは、霧が朝日を吸収して視界をふさぐ湿地の中を走っている。
この霧は、灰色のおぼろな空と湿地の濃い緑色を、
パレットの上の絵の具のように混ぜ合わせ遠近感を失わせる。
ときおり鹿が視界の中に現れては霧の中に消え去る。

あらゆる生物を飲み込み消化する巨大な魔物を思わせる不気味な光景は、
出口を示す光のみえない今の状況にぴったりと寄り添い離れずについて来る。

ふと、木に休んでいる鷹を見つけた私は、気分を変える試みに一句詠んでみた。

鷹一つ みつけて うれし 花咲線

何のひねりもない。芭蕉の句そのままである。
そう言えば、目覚めた時から全く冴えない朝だった。

矢印マーク 民宿えびすや

「旬だから食べて欲しい」と花咲ガニも夕食につけてくれた。
根室駅徒歩1分。粋でアットホームな民宿。
一泊夕食のみで5,780円(09年08月10日宿泊)
北海道根室市大正町2丁目44
TEL:0153-24-5743

今朝は、港町にふさわしいカモメの鳴き声と忌々しい蚊の羽音で目を覚ました。

顔のまわりを闇雲に手ではらい、白みはじめた空を映す窓をみると、
網戸が半分開いていた。昨夜はカーテンに隠れて気づかなかったようだ。
なにげなく掻いた人差し指はぷっくりと腫れている。

人様の生き血を吸うだけでは飽き足らず、腫れと痒みの置き土産を残してゆく
この因果な虫にも五分の魂はある。

いつもは寛大な心でそれを見るように心がけているけれど、
実際に腫れた人差し指を見ると、半開きの網戸に気づかなかった
昨夜の自分のふがいなさを思い出し、二重に腹立たしくなってくる。
私は、どうしようもないと知りながらも、網戸をハッタと睨みつけた。

「おじいちゃん、死んだみたいだよ」
おかめは私の目覚めを待っていたかのように言った。

「変なメールが来て、気になって寝られなかったんだから」
それは、わが母親からのものであった。

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み仏の詩より~懺悔の本質

世の中にはツイてる人とツイてない人が確かに存在する。

矢印マーク 面白いほど成功するツキの大原則
今の自分の境遇は今までの自分の責任。
そう思えるためにはどツボにハマっている
愚かな自分を素直に認める必要がある。
この本で徹底的に打ちのめされるべし。
この本によると、この理(ことわり)を認めたがらない人に限って、
こんなことを信じたがるそうだ。

努力は必ず報われる。

その一人だった私は、かつて、よくこう言ったものだ。

神も仏もあったもんじゃない。頼れるのは自分だけだ。

お題目のようにそう唱えながら、せっせと努力するほどに
どツボにはまってゆくのは、因果律を誤解していたからにほかならない。

そう気づいたのは、法句経(ダンマパダ)を読んだときである。

矢印マーク ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫)
本文「法句経」の引用はここから。
こなれた現代語で読める法句経です。
私の仏教に対する誤解は、この本で初めて解けました。

法句経の第一句ほど、因果律を端的に表現したものはない。

ものごとは 心にもとづき 心を主とし 心によって作り出される。(法句経1)

これをどう読んでも、こう書いていなかったのである。
ものごとは 努力にもとづき 努力を主とし 努力によってつくりだされる。

この因果律とは「原因と結果の法則」と換言できる。
そして人生の結果に直面する原因は心にあるとお釈迦さまは説いていたのだ。

つまり、こういうことだと私は解釈した。

人生は人の心の状態にまかせて忠実に設計されてゆく。(布施仁悟)

誰一人として、いわれのない苦しみは受けないことになっているのだ。
この啓示にどれほど喜んだことだろう。それは経典を読み進む十分な動機となった。

そんなに単純ならば、どうして私はツイてないのだろうか
---この疑問を解決するためにも経典を読み散らかす必要があったわけだ。

その疑問にも、お釈迦さまは親切に答えていた。

「われらはここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。
----この理を人々は知ろうとしない。
(法句経6)

生まれたから死ぬということも因果律であり、変えられないのである。
人々の心には、変えられないものを受け入れる潔さがないから、
この世の責苦(せめく)に苛(さいな)まれるとお釈迦さまは説いていた。

おしなべて、こういうことだと私はおもった。

人生は心一つ。それ次第によってどうにでもできる。
ただし、変えられないものをあきらめる潔さも肝心。

残念ながら、その潔さを持ち合わせていないものには、
何を言っても無駄であるとお釈迦さまですらさじを投げていた。

浄いのも浄くないのも各自のことがら 人は他人を浄めることはできない。
(法句経165)

み仏の教えは、いつでも手の届くところにあったのに、
聞く耳を持たなかった私は、どツボにはまるしかなかったのである。

矢印マーク 聖書―旧約・新約
イタリア人神父が丁寧に日本語訳した聖書。
伝道の情熱を読みとれる貴重な一冊。
聖書は坐禅修行にも必ず役立つ。
かりそめにも軽んじてはならない。

聖書には、聞く耳のあるものは聞け!(マルコ4-9)とわめき散らして、
磔(はりつけ)にされてしまったおっさんの物語が残っている。

だから、お釈迦さまに倣(なら)って私もさじを投げたほうが賢明かもしれない。
されど、この世の責苦を克服する方法を記す懸命さも無駄にはなるまい。

というわけで私も、インターネットの片隅で、ちょっとわめき散らすことにしてみよう。
いわく、読む頭のあるものは読め!

聞く耳を持ち合わせるには、坐禅を行じながら因果律を観ずるのが手っ取り早い。
因果律は誰のうえにも働いているからだ。

つまり因果律のおかげで、心の汚れているものと心の浄らかなものの区別なく、
その心の豊かさにふさわしい人生の結果に人は直面しているものだ。

このことについて磔のおっさんは、こう言っている。

実(み)をみれば、その人物の正体がわかる。(マテオ7-16)

だから、もしも今、ツイていないなら、自分がどツボにハマっている原因を
自分の過去に探ってゆくと、自分の人生に働いている法則に気づくことができる。
それこそが因果律だ。

そして、因果律を観ずる手段こそ、懺悔(ざんげ)にほかならない。

具体的には、嫉妬深さや、怒りにまかせて逆上して失敗した経験や、
家族・友人・恋人ひいては神仏と罵(ののし)り合ってきた過去の心の傷を
あからさまに認めて、胸の内でゆるし和解することである。

こうして、自分自身も気づきたくないような、そして他人には無論、
知られたくないような心の中の思いを暴(あば)き出すのである。

それは、自分と正直に向きあうことを意味している。

例えば、恋人にフラれた原因を自分の愚かさに求めるのではなく
相手に責任転嫁していたり、家族が自分の思い通りにならないことに
腹を立て、相手がどうして愚かなのかという理由をいつまでもネチネチと
思い返していたり、友人に嫉妬して愚痴を吐いたりした自分をいつも
恥ずかしく思っては言い訳を繰り返したり、人生のうまくいかない理由を
神仏にあてこすりしている間は自分に嘘をついている。

愚かなのは自分の時もあり、他の誰かの時もあるけれど、
坐禅において、その全ての愚かさをゆるし自分と正直に向きあうのである。

だから、自分が傷つけてしまった誰かを目の前にして謝る必要もなければ、
自分を傷つけた誰かに謝ってもらうにも及ばない。

ただ、自分と正直に向きあえば、それで十分事足りる。

すると、いくら環境を変えても、必然的に同じような出来事や人物に出会い、
同じような苦悩に直面させられる人生の法則が身にしみて分かってくるはずだ。

そうして、はじめて自分の心をどう組み替えるべきか分かってくる。
つまり、人生の変え方、道の開き方が分かってくるのである。

この因果律こそ、言わば、神のみえざる手であり、み仏の方便だと私はおもう。
愛や慈悲とは、必ずしも人の思い通りを叶える力のことではないのである。

こうして因果律を観じて、菩提心や信仰心が心の底からわき興るのを体験する時、
自分が情けないのか、ありがたいのか、意識できないまま号泣するに違いない。
はじめて神仏と和解し、その慈悲にふれるとき、人は魂の涙でそれに応えるのだ。
その時こそ、ホントの得度の時であり、ホントの洗礼の時なのである。

もしもこの体験に成功した人がいたら、私の好物のポテチとコーラで祝福したい。
ちょっとはマシな坐禅の世界へようこそ---と。
そして、この歌の意味を心ゆくまで分かち合おうぢやないか。

【歌篇】ホントの慈悲ってむやみにキツイ。(作:布施仁悟)

み仏の歌04img み仏の歌01txt

み仏の詩は本サイト・矢印マーク HP「肴はとくにこだわらず」で公開中。

P.S.ポテチはカルビーうすしお派で、ペプシ・コーラは邪道だとおもっているけれど、
お望みとあらば、コイケヤのポテチやペプシ・コーラの用意もやぶさかではない。

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因果律を観ずるための手引書です。

矢印マーク 面白いほど成功するツキの大原則
今の自分の境遇は今までの自分の責任。
そう思えるためにはどツボにハマっている
愚かな自分を素直に認める必要がある。
この本で徹底的に打ちのめされるべし。
矢印マーク 「原因」と「結果」の法則
葬式仏教の坊主。結婚教会の牧師。
彼らの唱える教条的な因果律がどツボにハマる原因。
この本で正しく因果律を解釈するべし。
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罪な菩薩

ヴィン・ディーゼルほど憎めない俳優はいない。

先日試写会で、矢印マーク 『ワイルド・スピードMAX』を観てきた。
これまで大人の事情で撮影できなかったワイルド・スピード1の続編だ。

矢印マーク ワイルド・スピード [DVD]
ワイルド・スピードMAXはこの作品の続編。
あらかじめ観ておくと2倍楽しめる。

今作『ワイルド・スピードMAX』のカーアクションの映像は、
実に見事でシリーズ最高の出来ではないかとおもう。

そういうアクション映画としての出来はさるものながら、
やっぱりヴィン・ディーゼルなのである。

その人柄に触れて友情の芽生えてしまったFBIおとり捜査官が、
犯人の逃亡を手助けしてしまうという設定にハマる犯人役は、
さしずめヴィン・ディーゼル以外にないだろう。

彼の役どころはお尋ね者のトラック強盗。
社会的に言ってみれば悪い奴なのだけれど憎めないのだ。

善悪を平等に観じてナンボな境地を坐禅では求めるけれど、
ヴィン・ディーゼルは見事に善悪の概念をブチ壊してくれる。

たぶん、ヴィン・ディーゼルは菩薩に違いない。

逃亡を助けたFBIおとり捜査官役のポール・ウォーカーのセリフも、
おもわず知らず感慨にひたってしまうものだった。
「あの頃、あいつを尊敬していたんだ。」

“尊敬”という言葉は、「尊」大切にし、「敬」礼儀を尽くすという意味だけれど、
たぶん、世間一般で“尊敬”という言葉ほど意味を誤解されている言葉はない。

世に母を敬うことは楽しい。また父を敬うことも楽しい。(法句経332)

聖書にだって、父母を敬え(モーゼの十戒)とあるけれど、これは誤訳である。
なぜなら重要なのは礼儀を尽くす「敬」ではなく、大切にする「尊」だからだ。

「尊敬」という言葉は、たとえば、“おもいやり”と換言するとわかりやすい。

「おもいやり」とは、今いるところにそっと放っておくこと。
「おもいやり」とは、あぁ、かわいそうにお気の毒さまとおもえること。
「おもいやり」とは、それもそうだねとおもうこと。
「おもいやり」とは、求められたら協力する心の準備のあること。

ところが、礼儀を尽くす「敬」を重視すると形式を重んずるあまり、
「礼儀がなってない」とか「口答えをするな」とか「常識がない」とか
相互のおもいやりの心を軽視することになってしまう。

ともすれば、「尊敬」とは目上のものに「跪(ひざまず)く」ことだと、
誤解してはいないだろうか?

だから、法句経と聖書はこう訳されるのが適当だとおもう。

世に母をおもいやるのは楽しい。また父をおもいやるのも楽しい。
父母をおもいやれ。

そもそも父子・母子の関係というのは、この世でおもいやりの心を
お互いに育むための最小単位にすぎないと私はおもっている。

このおもいやりの心は、お互いに礼儀を尽くすことで育まれるのではなく、
お互いに大切にし合うことで、初めて育まれるものではないだろうか?
礼儀作法や社会常識なんて形式的なものは、心の通じ合えない人たちの
低俗なコミュニケーションツールにすぎないのである。

だから、映画の「あの頃、あいつを尊敬していたんだ。」というセリフは、
「あの頃、あいつは形式にとらわれることなく大切にしたい人だったんだ。」
という意味を含んだふくいくたる香気を漂わせているように私は感じたのだ。

それにしても、脇を固めるミシェル・ロドリゲス、ジョーダナ・ブリュースター、
ガル・ギャドットの女優陣は神々(こうごう)しいほど私好みの美人だ。

彼女たちが揃って眼前に現れたら、私は思わず跪(ひざまず)いて、
敬ってしまいたくなるかもしれない。

世の中には、彼女たちのように罪な菩薩もいるのである。

矢印マーク ワイルド・スピード2 [DVD]
ワイルド・スピード2は奇跡の2作目。
あらかじめ観なくてもいいけど、これはオススメ。
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道東青春18きっぷの旅4

釧路行2527Dが帯広駅を出発した。
電車が海に近づくにつれて、辺りに霧が立ち込めてくる。
太平洋を眺めながらの走行だけれど、見晴らしは全く良くない。

釧路行2527D 霧

私を窓側に座らせないからこんなことになるのだ。
なんて行き場のないあてこすりをしながら本を読む。

通路側の座席は車窓を眺めようにも首が疲れてしょうがない。
こんな時の文庫本は暇つぶしに持ってこいだ。

矢印マーク 洋食や (中公文庫BIBLIO)

日本の洋食屋の草分け的存在と称される
日本橋たいめいけんの創業者の著書。
レシピを惜しげもなく公開した
豪気な江戸っ子の粋なエッセイ。

本を読むには丁度いい霧だとばかりに読んでいたら、
電車は白糠駅で立ち往生し、けしからぬアナウンスが流れた。

「この先で信号故障発生。復旧の目処は立っておりません。」

釧路駅で16時14分発の根室行5637Dに乗れなければ、
19時到着予定で食事を用意してもらっている根室の民宿に迷惑がかかる。
なんとしても乗り遅れることだけは避けたい。

時刻表をみると15分位の遅れなら大丈夫そうだった。
釧路駅での接続には17分の猶予があったからである。

そう言えば、白糠駅からこの電車の終点・釧路駅までにある信号は、
東庶路の一つだけじゃないか。手旗信号でなんとかならんのかいな。
次第にイライラはつのる。

立ち往生してから15分過ぎる頃。
「1時間位はダメかもってよ。まいったなぁ」と誰かが洩らしたものだから、
たまらなくなった乗客は、車掌を代わるがわる質問攻めにし始めた。

立ち往生から20分後。特急・スーパーおおぞらが白糠駅に入線。
正確には電車だから表現はおかしいけれど、“渡りに船”だと思った。
特急に乗り換えれば、よしんば多少遅れても接続を配慮してくれるはずだ。

さすがに特急は快適だ。空調。シート。
何から何までが普通列車とは別世界に感じられた。
しかも、たった数分で釧路駅へ到着。完全に遅れを取り戻せた。
根室行5637Dの出発までは15分の猶予がある。むしろ早すぎるくらいだ。

おおぞら あれは…

16時14分の出発を待つ根室行5637Dの座席は閑散としていた。

本来なら白糠駅まで同乗してきた何人かと、
この電車の座席を争うはずだったのだ。

「特急料金無駄になったらバカみたい。あの電車遅れればいいのよ。」
そう言う連れの“おかめ”に、そんな発想はいけないと諭(さと)しながら、
あの電車はたぶん遅れるはずだと胸の内で言い聞かせている自分も
如何なものだろう。

そうして、ライバルの不在に一抹の寂しさを覚えつつも、
安堵感とも優越感ともつかぬ数分間を過ごした。

そのうち、向かい側のホームに見覚えのある電車が入線してきた。
あれは白糠駅で置き去りにしてきたはずの普通電車ではないだろうか?

私は信じがたい光景に見て見ぬふりを決めこむ。
一方、おかめは「もう、どうして間に合うのよぉ!?」と落胆してから、
「そうよ。特急料金は保険だったのよ」と一人で勝手に結論を下した。

“保険”とはよく言ったものだ。
それは、国民を欺くために嘘つきの官僚たちがよく使う
霞ヶ関文学のように狡猾(こうかつ)なマヤカシにすぎない。
要するに、あの普通電車で間に合うか間に合わないかの
“賭け”をして、われわれは見事に損をこいたにすぎないわけだ。
“保険”という言葉で真実を誤魔化すのは止(よ)そうじゃないか。

あの普通電車に白糠駅まで同乗していた見覚えのある幾人(いくたり)かが、
この根室行5637Dにバラバラと乗り込んできた。

これじゃあ“バカみたい”じゃなくて、“バカそのもの”だ。
内心穏やかではなかったけれど、冷静きわまる紳士を装って、
文庫本を読みふけるフリをした。
こんな時の文庫本は、面(つら)隠しにも持ってこいだ。

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裁判員制度と男の助平

「なぜ世の中から犯罪や紛争はなくならないのか」という命題は、
「なぜ男は助平なのか」という命題に通じると私は依怙地(えこじ)に思っている。

09年5月21日からスタートすることになった裁判員制度は、
殺人・強盗致死傷・傷害致死などの“重大な犯罪”の裁判に
われわれ市民を引っ張り出そうという制度だそうである。

たぶんこの制度の根底には、こういう単純な発想があるに違いない。

誰もが納得するような合理的な判断基準を人間は導ける。

何の関係もない市民を引っ張り出すのは、そのためだ。
つまり、公約数的に選ばれた裁判員を含めて話し合うことで、
市民感情にも配慮した合理的な判断基準を導いて裁こうというわけだ。

こういう制度を作ってしまうのは、「犯罪や紛争のなくならない理由」
ひいては「男の助平の道理」をさっぱり理解していないからではないだろうか?

それなら私にも一家言(いっかげん)あるので、ここに書きつけておきたい。

例えば、幼少期のお気に入りのおもちゃに飽きてしまった時のこと
を考えると、このことがよく分かるとおもう。

たぶん、そういう時に合理的に考えて「飽きた」と言う子供はいない。
いつの間にか一つのおもちゃに対する執着がなくなって飽きるのである。
興味が他のおもちゃに移ることに合理的な理由なんてないのだ。

それは、大人になってからの男の助平にも当てはまる。
ある種の男は、いつの間にか一人の女に対する執着がなくなって飽きる。
そのとき他の女に興味が移っても、そこに合理的な理由なんてないのだ。
たとえ男が理由を述べたとしても、後から取ってつけた言い訳にすぎない。

とどのつまりが、アソコが疼(うず)いちゃっただけなのである。
本人でさえ理由がわからない助平を他人が理解できるわけがない。
理性を欠いた不可解な衝動。そこに民事紛争が起きるわけだ。

これは裁判員制度で扱うような“重大な犯罪”にしても同じことである。
わざわざ割りに合わない犯罪を犯すのに、合理的な理由なんてない。
理性を欠いてしまった挙句の行動にすぎないのだ。

だから、犯罪者が理性を取り戻す手助けをしない限り、
どんな合理的な裁きも根本的な解決には結びつかないのである。

もしも、犯罪や紛争と向き合う気が本当にあるなら、
法曹の数を増やしたり、裁判員制度の普及に力を入れるよりも、
理性を訓練する手段として坐禅を普及するべきである。

それに合理性のない人間の衝動を合理的に裁こうなんて思い上がりにすぎない。

沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、
すこしく語る者も非難される。世に非難されない者はいない。(法句経227)


人間は有史以来、心の中にある常識という名の偏見を振りかざして、
誰彼かまわず非難し裁くことを繰り返している。
その大義名分となった常識にしても、時代とともに変遷するような
信頼のおけない非合理的なものであるにもかかわらずだ。

まさに合理性を欠く男の助平は、非難の槍玉に何度上がってきたか数知れない。

ショートパンツから伸びたスラリとした脚を眼で追いたくなる衝動を抑え、
わざとはだけさせたような胸元にドキリとしては見てみぬふりをしているのに、
なんだか「どこみてんのよ、このスケベ」などと勘ぐられているようで、
立つ瀬のない思いをするのは、私は、もう、たくさんなんだ!

そんな私にとって、この句に添えられている2500年前のお釈迦様の言葉は、
せめてもの慰めになるかもしれない。

これは昔にも言うことであり、いまに始まることでもない。(法句経227)

男の助平というものは、それにしても度(ど)しがたい業(ごう)ですな。

矢印マーク ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫)

本文「法句経」の引用はここから。
こなれた現代語で読める法句経です。
私の仏教に対する誤解は、この本で初めて解けました。
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