結跏趺坐へのストレッチ6~肩まわりの簡易望景内~

簡易望景内とはいえ簡単望景内という意味ではない。

「一日たった5分」「誰でもできる」「一週間で効果を実感!」
そんな謳(うた)い文句を期待しているなら煎餅でも食って寝ていて欲しい。
誰でもできるほど簡単ならボクがわざわざ解説するまでもないでしょう?

とにかくやってみれば生ぬるいものではないことくらい自明になる。
おそらく十人中九人がこの最初の簡易望景内で挫折するに違いない。

簡易望景内1
~肩まわりの簡易望景内その1~
1.右手を上から背中に回し、左手は下から背中に回して、右手と左手を背中でつなぐ。

2.手をつないだら、なるべく深く握る。

3.左肩の仁王軸周辺の不随意筋に気が流れるにまかせてキ~プ!

4.左肩にじんわり効いてきちゃったねえ~。

5.今度は左右を逆にしてやってみよう。

(参考:成瀬雅春『ハタ・ヨーガ完全版』P.154)
図・布施仁悟(著作権フリー)

これは牛の顔のポーズとして知られるヨーガのアーサナの応用である。

いや、言いたいことはわかっている。絵の上手くないことは認めよう。
しかし絵が間違っているなんて言い逃れはしないでくれたまえ。
体軸が調ってさえいれば背中で両手をつなぐことも可能なのだ。

きっと幼い頃から柔軟性を身につけていればこの望景内は最初からできる。
たとえば、そういう人たちに「できっこない」なんて言おうものなら、
鳩のように目を白黒させて首を傾げられることだろう。

もしも体操や空手を通じてストレッチ運動を始めるなら4歳くらいまでが望ましい。
この時期を過ぎると気の出入口である経穴が塞がって不随意筋は増えてゆき、
ついに経穴を再開発して気道に気を流さなければ不随意筋を解消できなくなる。

だからといって精神集中や呼吸法で無理に経穴を開こうとしてはいけない。
あくまでも重要なことは、頭頂開をともなった結節解放を経て、
気の出入口となる中心点を頭部に形成し、そこから体軸を調えていくことにある。

それを可能にしてくれるのが禅の真髄・心随観と望景内なのだ。それに、
これら正攻法でなければ柔軟になれない肉体の持ち主なら邪道に陥らなくて済む。
そんな禅者は、だから、この望景内を今できなくても一向に構うことはない。
むしろ「望景内に向いている」と考えて指先同士を付けることから始めて欲しい。

また、そんな望景内に向いている禅者はこの事実を覚えておくといいと思う。

「苦手な望景内ばかりを集中してやっていても効果はない」

というわけでその理由を解説していくのである。

~姿勢の違いと肉体のパーツ~
図・布施仁悟(著作権フリー)

望景内で主に刺激する仁王・不動・菩薩軸というのは肉体を天地に貫く重力線。
しかし悪い姿勢のままだと各軸に沿うべき肉体のパーツはそこからズレてしまう。
そこで重力に逆らって姿勢を維持しようと筋肉を始終緊張させるから、
次第に麻痺を起こして終いには硬直してしまう。それが不随意筋である。

この不随意筋は崩れた姿勢を維持するために硬直しているのだから、
それぞれの軸に万遍なく気を配分して姿勢のバランスを取るようにする方がよい。

そういうわけで望景内のすべての型を過不足のないように修練していれば、
仁王・不動・菩薩の各軸をバランスよく調えていくことになるため、
いつのまにか苦手な望景内もできるようになってくるものなのである。

~姿勢の違いと骨盤後傾の影響~
図・布施仁悟(著作権フリー)・参考『弱った体がよみがえる 人体力学』

では次に不随意筋を生み出す悪い姿勢の元凶を考えてみたい。

右図は典型的な凡人の姿勢を表してみたもの。
前に突き出したアゴ。
肩甲骨が前に出て前傾してきた肩。いわゆる猫背。
背骨の腰椎のカーブを失って垂れた尻。
崩れたバランスをとるために前にでた膝。しかもガニ股。
程度の差こそあれ普通の人の姿勢なんてこんなものである。

そのすべての元凶が実は骨盤の後傾にある。
骨盤の後傾により崩れた姿勢のバランスを保つために、
背骨周辺や肩や膝の筋肉に緊張をもたらしているのだ。

また骨盤は後傾するだけでなく左右にも傾く。
その影響は左右差として現れ内臓機能の低下にまで一役買っているから、
たとえば便秘、ぜんそく、アトピー性皮膚炎。すべての原因がここにある。
すなわち、とにもかくにも骨盤。“肉体の要・腰”が最も重要なのである。

したがって簡易望景内1のボケナイポイントは左肩に留めていてはいけない。
頭部の中心点から肉体に流れ入る気は左・仁王軸を伝わって骨盤を抜け、
同時に右・仁王軸にも流れるようにボケナイして左右差をも解消したいところだ。

~簡易望景内1のボケナイポイント~
ボケナイポイントは実に全身に及ぶ。
図・布施仁悟(著作権フリー)

つまり左肩ばかり意識していても体軸のバランスを調える効果は薄いのだから、
肩から骨盤へ抜ける左右仁王軸全体を意識して簡易望景内1は完成なのである。

また簡易望景内1のできない原因は骨盤の傾きにあるとすれば、
続けて骨盤の傾きを修正するための望景内も組み合わせればよいと知れる。

たとえばこんなの。

簡易望景内2
~肩まわりの簡易望景内その2~
1.左足を真っ直ぐ後ろに引き、右足の爪先を内側に向ける。

2.右ひざを折って、左脚を伸ばす。

3.上体を前にかがめ、両腕を背後に伸ばす。

4.右股関節、左肩、左腰にじんわり効いてきちゃったねえ~。

5.左仁王軸を降りてきた気が左脚のふくらはぎまで流れる感覚を掴めるまでキープ!

5.今度は左右を逆にしてやってみよう。

(参考:髙木一行『鉄人を創る肥田式強健術』P.156)
図・布施仁悟(著作権フリー)

これは肥田式簡易強健術におけるふくらはぎの練修法そのままなのだけれど、
この型には骨盤の傾きを修正して仁王軸に気を流す仕掛けがちゃんとある。
単なるふくらはぎの筋肉を伸ばすストレッチではないのだ。

実はさりげなく提示されている両足の角度にこの型の隠し味がある。

~簡易望景内2における足の角度~
骨盤の左右差修正という意味では、
この足の角度が最も重要なのである。
図・布施仁悟(著作権フリー)

この両足の角度を保ったまま上体を前かがみにすると右不動軸に気が流れる。
このとき右股関節周辺に流れる気が骨盤の左右の傾きを修正するのである。

同時に両腕を背後に伸ばすことで特に左肩の歪みを修正することになるから、
左仁王軸を肩から骨盤へ抜けた気は真っ直ぐ伸ばした左脚のふくらはぎに至る。
この型がふくらはぎの練修法とされている理由はざっとこんな感じなのだ。

この望景内の意図を解説するとこういうことになる。

~軸ずれとその修正の基本~
図・布施仁悟(著作権フリー)

左図のように肉体のパーツの軸ずれは骨盤と肩周辺において顕著になっている。
望景内の目的は軸ずれを修正してパーツ同士を真っ直ぐに結合することなので、
骨盤と肩を調整しながらズレているパーツの接合部分を探り当てればよいのだ。

この肥田式由来の型なら骨盤と肩の歪みを同時に修正して軸ずれを解消できる。
ゆえに望景内の目的を実現するためにはおあつらえむけの操体法といえよう。

とはいえ理論的には簡単なことでも実践になるとやっぱり難しい。
軸ずれは図のような前後だけでなく左右の方向にも起きているし、
不随意筋に阻まれて接合部分を探り当てるなんて不可能に思えてくるからである。

まさしく、そんなときこそ肥田式強健術を試してみるといい。それはいわば、
太極拳の型を合理的に単純化して万能の型に昇華したようなものだからだ。
してみれば肥田式強健術は太極拳創始に匹敵する一大革命だったのである。

矢印マーク 鉄人を創る肥田式強健術
簡易強健術は臍下丹田を正しく開発した人向けの体操。
臍下丹田を開発できるとこれだけで十分だそうである。
やっぱりホンモノはいつの時代にもいたんだね。

そして2012年。肥田式以来の第二次革命が起ころうとしている!
それはオツムの弱った21世紀の日本人向けに肥田式を応用した望景内。
創始者は不肖わたくし布施仁悟。その実態はただのパクリのようでもある…。

さてさて次の望景内は創始者・布施仁悟オリジナルだ。
ボクはただのパクリ屋ぢやあないんだぞ!
簡易望景内2に引き続きこの簡易望景内3をやれば効果的だと思う。

簡易望景内3
~肩まわりの簡易望景内その3~
1.簡易望景内2の足の角度を保ったまま上体を起こす。

2.左腕を上げて背中にまわす。

3.背中にまわした左手を右手で引っ張ったままキープ!

4.左肩にじんわり効いてきちゃったねえ~。

5.左仁王軸を腰まで降りてきた気が左脚へ抜けるように骨盤をグイッと立てよう!

6.もちろん左右を逆にしてやってみるべし。

7.踵(かかと)を地面にぴったりつけて浮かないように注意しましょう。
図・布施仁悟(著作権フリー)

「なんだ。ありがちなストレッチじゃないか」などと言ってはいけない。
これが簡易望景内3なのである。肩と腰を同時にボケナイできる型なのだ。

おそらくほとんどの人の骨盤は左右どちらかに傾いているだろうから、
足の角度を工夫してこの望景内の真骨頂を発揮してみてもらいたい。

~簡易望景内3における足の角度~
骨盤の左右差修正という意味では、
やはり足の角度が味噌なのである。
人によって骨盤の傾きは異なるから、
肉体の状態に適した角度を探ろう。
図・布施仁悟(著作権フリー)

ボクのおすすめは後ろの足を前の足と平行にそろえた角度45。
この足の角度で身体をひねるとより肩側の不随意筋を刺激できる。
図示するとこんな感じ。

~簡易望景内3の展開型~
足の角度を変える工夫だけで
ボケナイポイントは微妙に変わる。
図・布施仁悟(著作権フリー)

この展開型は後ろに引いた左足の角度をより左側に傾けることで、
上体をさらに右側に捻(ひね)ることになる。
この捻りによって気は不動軸に流れやすくなるはずなのだ。

その理由を説明するとこういうことになると思う。

左腕を頭上にあげて前傾している肩甲骨を後傾させ軸を前後に修正する。
さらに捻りを加えることによって左右の軸ずれをも修正しているのだ。
こうして軸ずれによって塞がっている不動軸の気道ルートを開くのである。

では捻りの重要性を知ったところで究極の捻り型を紹介しよう。
それは意外にもボクたち日本人にはお馴染みの型である。

簡易望景内4
~肩まわりの簡易望景内その4~
1.左足を柱に対して外向き45度で構え左手を柱に水平に置く。

2.右足を柱に対して外向き45度で踏み込み右手を柱に垂直に置く。

3.右仁王軸に気が流れるように肩と腰を調整しながら上体をおこしてキープ!

4.あれあれ左肩と左腰にもじんわり効いてきちゃうみたいだねえ~。

5.もちろん左右を逆にしてやってみよう。

6.相撲のテッポウ稽古のように踏み込んだときに肩と腰を調整して、それから上体をおこしてゆくのがコツ。

7.これは究極の捻り型だから絶対に無理をしてはいけないよ。
図・布施仁悟(著作権フリー)

これは太極拳の玉女穿梭(ぎょくじょせんさ)という型の応用版。
そこに相撲のテッポウの要素を加えて柱を補助に使ってみた型である。

ただし現代の相撲部屋に伝わっているセンスのないテッポウとは違って、
全体重を柱にかけて足腰を鍛えようなんて意図はないから立派な柱でなくていい。
あくまでも肩と腰の調整を目的とするので家の壁を補助にしても構わないのだ。

昔は小さな身体の横綱もいたのだけれどその理由はシコとテッポウにある。
ところがその真意は忘れ去られホンモノの横綱は久しく土俵に現れていない。
おかげで相撲はわが国・日本の国技のくせに人気の低迷に喘いでいるのである。

外国人力士をあっさり投げ飛ばす強い日本人横綱が出れば人気も戻るのだから、
そのためにもシコとテッポウの真意を早急に見直さなくちゃいかんのだ。

また先日、中学校で武道教育が必修化されたそうである。
その導入に当たって文部科学省の提示した選択肢は、相撲、剣道、柔道の三つ。
そこで六、七割の体育教師が柔道を選択したことなんぞ、実に嘆かわしい。
そんな体育の基本もわかっていない体育教師は即刻解雇しちゃいなさい。

だいたい何のための教育なのかを少しは考えて欲しいものだ。
一人で稽古できる合理的な型を持つのは相撲と剣道。特に相撲は器具も要らない。
生涯教育という意味で最も価値のあるのは他でもない国技の相撲ではないか。

というわけで日本の国技・相撲の極意をこれから解説するのである。

~簡易望景内4の隠れボケナイポイント~
仁王・不動の四本の軸を真っ直ぐに調える。
だから対角にある軸も同時に意識する。
図・布施仁悟(著作権フリー)

右足を柱に対して外向き45度で踏み込むと図のようになると思う。

ここからズレている肉体のパーツを接合するために右肩を調整するのだけれど、
そのためには右仁王軸の気を骨盤から下の右脚に流すようにすると都合がいい。
つまり右肩から気を流して骨盤の歪みを調整してゆくわけだ。

すると床と柱で踏ん張って骨盤の後傾と左右の歪みを調整する感じになる。
このとき簡易望景内4の図のように手と足の角度を厳密にするなら、
右仁王軸と対角にある左不動軸も調整することになるはずなのだ。

これは四本脚の椅子の原理と同じこと。
仁王・不動の四本軸にはそれぞれ均等に気を流さなければならず、
この望景内の手と足の角度はその目的に最も適した角度なのである。

相撲のテッポウの稽古は強靭な足腰の力を得られるとされるけれど、それは
この体軸を調える効果によるもので別に足腰の筋肉を鍛えるわけではない。
そもそも足腰の筋肉を鍛えるなら重量挙げをやればいいのである。

では簡易望景内4の手と足の角度を確認しておこう。

矢印マーク ハタ・ヨーガ完全版
P.36-37の入門編「腕の運動Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ」
P.78のひねり系統7「ジャタラパリヴァルタナ」
P.103の前屈系統20「ハヌマーン」
これらは日々のストレッチに是非とも取り入れたい。
簡潔に書かれた解説はストレッチのコツの宝庫だ。
やっぱヨーガでしょ。
矢印マーク 弱った体がよみがえる 人体力学
非常にわかりやすいイラストですごくいい!
整体師の中には国家資格を取得しただけの医者よりも
病の原因についてよくわかっている人がいるんだよね。
矢印マーク 日本伝統のコアトレがすごい! シコふんじゃおう
シコトレは老若男女におすすめである。
国民体操に認定して学校で教えたらどうだろう。
というか教えるべきだ。

この続きは近いうちに。

参考資料:望景内で刺激する体軸
前面の体軸の支線 背面の体軸の支線
図・布施仁悟(著作権フリー)


【追伸:2012年1月25日】
ちょっと余裕ができたので記事を書くペースを早めようと思う。
ボクは今年38歳を迎えるんだけど、近頃、悟境の進歩が著しい。
そう遠くないうちに“丹”ができるので、それからは縁覚道に入ると思う。
縁覚道に入ったら沈黙の行に専念しないと悟れないらしいから、
このブログも近いうちに断筆しなければならない。
ここで悟らなかったせいで生まれ変わってまた同じ苦労なんて御免だからね。
たぶん41歳まで沈黙を守ることになると思うから、
もしも、この一連の記事を読んでいる人で要望・質問のある人がいたら、
早めにコメント頂戴。できるかぎり応え、わかる範囲で答えます。

禅・坐禅部門でブログランキング参加中!
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ 記事更新の励みです。
バナークリックで仏の慈悲を!
武術・武道部門でブログランキング参加中!
にほんブログ村 格闘技ブログ その他武術・武道へ 記事更新の励みです。
バナークリックで打つべし!打つべし!
本サイト『電脳山 養心寺』もよろしく!
『肴はとくにこだわらず』へ 電脳山・養心寺で「ちょっとはマシな坐禅」を!
1年以上前のバックナンバーを読めるのはHPだけ。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

結跏趺坐へのストレッチ5~身心脱落とは何か?~

簡易望景内には望景内のすべてがある。

気が全身を巡るにはそれなりの調整時間を要する関係で、
坐禅にしろストレッチにしろ黄金時間は60分以上、できれば90分が望ましい。
ところが、この望景内はじっくりやってもせいぜい30分程度。
不随意筋を抱えている肉体にはちょっと簡便すぎることを難点とする。

しかし、望景内の理論のすべては簡易望景内にあるため、
まずは簡易望景内から解説していった方がわかりやすいだろう。

また、この簡易望景内は『肥田式強健術』に範をとったものだから、
まずはその概要を解説してみたい。

矢印マーク 鉄人を創る肥田式強健術
簡易強健術は臍下丹田を正しく開発した人向けの体操。
聖中心を開発できるとこれだけで十分だそうである。
やっぱりホンモノはいつの時代にもいたんだね。

『肥田式強健術』とは肥田春充という人物の創始した日本発祥の操体法で、
簡易望景内はそのうちの『簡易強健術』を元ネタとしたものである。

この強健術の効果の謳(うた)い文句は甚(はなは)だ愉快。
なんでも強健術をもってすれば健康の獲得はもとより、忽ち武道の極意に達し、
禅を修めればその妙を極め、仕事・芸道を能率最高とする処世の秘訣だそうな。

肥田式強健術の効果
(1)心身修養の最捷径。
(2)健康衛生の本源。
(3)体力増進、無比の便法。
(4)威容発現の秘鍵。
(5)肉体美、彫刻美、姿勢美、活動美の第一条件。
(6)あらゆる芸術の根底。
(7)すべての武道の妙諦。
(8)能率増進の基礎。
(9)社交上の要訣。
(10)処世の一大利器。

(参考:『鉄人を創る肥田式強健術』P.52)

この効果は春充が“聖中心”と呼ぶ人体の物理的重心を養成したとき身につく。
しかも、その必須条件はたったの三つ。

聖中心養成の三必須条件
(1)腰腹を堅固にする。
(2)脊椎を伸ばす。
(3)上体柔軟

(参考:『鉄人を創る肥田式強健術』P.52)

そして、これが三つの条件を満たした聖中心養成の効果である。

聖中心養成の効果
(1)気力の充実、精力の旺盛、正義に強きの真勇を得る。
(2)その精神はきわめて平静にして、仁愛の情自ずから起こるに至る。
(3)内臓諸器官の機能を完全にする。
(4)身体各部の成長発達を順当にする。
(5)自ずから強健に導き、能率を増進させる。
(6)正しい姿勢によって無駄なエネルギーの消耗を防ぐ。
(7)攻撃防御、ともに変化自在なるを得る。
(8)宗教上、悟道の極地に躍入させる。

(参考:『鉄人を創る肥田式強健術』P.54)

人格完成、健康増進、病気平癒、武道結晶、大悟徹底…。
たしかに、おのおの食いつく所は違うかもしれないけれど、
どこを目指しているにせよ答えはここにあるといわんばかりだ。

さらに春充の痛快なのは只管打坐の極意を操体法から解明したことにある。

先師古仏云く、参禅は、身心脱落なり。祇管に打坐して始めて得べし。焼香・礼拝・念仏・修懺・看経を要いず。
(道元『正法眼蔵』-「三昧王三昧」)

只管打坐により身心脱落は得られ、参禅とは身心脱落することである。
その他もろもろの仏道修行は必要条件ではないとボクらの祖師・道元は説く。

しかし、よくある身心脱落の説明といっぱ一知半解。それは生かじりでしかなく、
まるでドラッグで飛ぶがごとく感覚を麻痺させたある種の催眠状態のようである。
そういうことなら坐禅堂に覚せい剤でも持ち込めばいいだけのことだろう。

そして肥田春充もまた同じような疑惑を抱いていた一人だった。
これは国会図書館のアーカイヴで読める春充の著作からの引用。
矢印マーク 二分三十秒の運動で健康の中心を強くする法』で検索してみよう。

精神の集中に至っては其の言葉が抽象的であって甚だ漠としている。
それには雑念を去って、無我無心にならねばならぬと云ひ、或は観念の統一が第一であるともいふ。

(肥田春充『二分三十秒の運動で健康の中心を強くする法 』-「研究の動機…(7)氣力の充実」より)

ところが聖中心養成の三つの必須条件を満たしたとき、
この問題はあっけなく解決してしまったらしい。

私は筋肉緊張法の上から『中心力』を応用しきった時、この精神上の問題は期せずして釈放せられたのである。
(肥田春充『二分三十秒の運動で健康の中心を強くする法 』-「研究の動機…(7)氣力の充実」より)

そこで春充は当たり前のようにこう説くのである。

精神を平静にするが為めには、先ず肉体を安静にせねばならぬ。
(肥田春充『二分三十秒の運動で健康の中心を強くする法 』-「研究の動機…(8)精神の平静」)

その精神と肉体の関係を解説するとこういうことになるそうだ。

つまり精神的光明世界の発現も、人体の物理的重心である正中心にその基礎をもつものであり、原理的には数学的厳正さをもっているということだ。正中心から重心を足の中央に向かって垂直に落とせば、地球の中心を貫いて無限宇宙に走り、その直線を上に伸ばせば、脳幹中枢を通過して無窮空間を貫く。こうして首は天に達し、足は地を貫く。この関係で力を起こした場合、超人的強烈なものとなる。この恐るべき力の緊張が仙骨神経叢から脊髄神経を通じて脳幹に伝達されたとき、大脳の思考機能は機械的停止状態に導かれ、思考思念が許されなくなる。すなわち真の無念無想の境地が現出する。思考なき無こそ超越解脱であり、大自由境、大自在境である。
(髙木一行『鉄人を創る肥田式強健術』-P.49「第1章 肥田式強健術は鋼鉄の肉体と超人パワーを生み出す!」)

これが只管打坐による身心脱落のカラクリに他ならない。

また肥田春充はこの真髄に至る七年前にすでに臍下丹田を開発していたけれど、
それは気の出入口となる中心点を体表に形成したまでにすぎなかった。
一般的な“臍下丹田”と人体の物理的重心である“聖中心”は別物なのだ。

その“聖中心”の中心力は体表ではなく体軸上に存在していて、
望景内で刺激する各軸に肉体がピタリとハマったとき機械的に発現してくる。
したがって臍下丹田の経穴をポッコリ開けたところで何の価値もないのである。

春充も聖中心を発見した40歳。臍下丹田だけを開発しても無意味だと悟る。

しかして、やっている中に、単なる腹力ではいけない。腹と腰と同量の力、腰から行った腹の力、腰に連なった腹の力、すなわち人体の物理的中心に向って球状の圧迫力を作るのでなければ、完璧のものではないと云うことを悟った。
一寸、聞いただけではその真価は容易に分かるものではないが、実際問題としては、まさに一大躍進であった。正宗の名刀、一揮(いっき)、磐根錯節(ばんこんさくせつ)をぶち斬ったような壮快を私は感じたのである。

(肥田春充『二分三十秒の運動で健康の中心を強くする法 』-「二分三十秒の新運動法」)

33歳から7年の精神修養を経てついに体軸上に球状の圧迫力を発見した春充は、
気の出入口にすぎない従来の臍下丹田とは違う人体の物理的中心力を知った。
そこで“聖中心”という臍下丹田とは異なる名称を付したものと思われる。

この“聖中心”の中心力を発現させる要件が聖中心養成の三必須条件であり、
それは道元禅師が『普勧坐禅儀』で示した坐相の前提条件みたいなものである。

すなわち正身端坐して、左に側(そばだ)ち、右に傾(かたむ)き、前に躬(くぐま)り、後に仰ぐことを得ざれ。
耳と肩と対し、鼻と臍(ほぞ)と対せしめんことを要す。

(道元禅師『普勧坐禅儀』)

この坐相のとき只管打坐による身心脱落は期せずしてやってくるものだから、
結跏趺坐や坐蒲なんてものは腹と腰を据えてこの坐相を補助するものでしかない。

また、この坐相のとき胸の力が抜けて鳩尾(みぞおち)は自然にゆるむ。

平和とは何だ?胸の力を抜くにあり。ただし、腹と腰とを据える。
(肥田春充『二分三十秒の運動で健康の中心を強くする法 』-「二分三十秒の新運動法」)

腰腹を堅固にし、脊椎を伸ばし、上体を柔軟にしなければ鳩尾はゆるまない。
つまり結跏趺坐は聖中心養成の三条件を満たして胸の力を抜くための坐相で、
この結跏趺坐の完成が只管打坐であり、そのとき身心脱落しているのである。

総じて身体の歪みを解消して体軸を調えれば聖中心に突き当たると推察できる。
そこで肥田春充は聖中心養成の方途として強健術の各型を示したのだけれど、
その『簡易強健術』の各型は「まず中心力ありき」の型でもあるらしい。

中心の腰と腹とに重きを置け。枝葉の型に拘泥(こうでい)することなかれ。中心調へば、型は自ら正しくなる。
(肥田春充『二分三十秒の運動で健康の中心を強くする法 』-「二分三十秒の新運動法」)

凡人は不随意筋のせいで体軸が歪んでいるから中心力どころではないので、
この『肥田式強健術』の効果を享受できる人はほとんどいないそうだ。

その理由は禅者なら当たりまえに察しがつくと思う。
肉体は心の成長に随伴して変性するため型にばかり熟練しても意味はない。
まず心の歪みを解消しなければ身体の歪みも解消できない道理なのだから、
筋道を無視した型は人体の物理的重心の生命力を欠いた単なるポーズとなる。

型は認識し、理解し、記憶することが出来るけれども、中心の生命力は、熟練に熟練を積んで体得する外に途はない。
(肥田春充『二分三十秒の運動で健康の中心を強くする法 』-「二分三十秒の新運動法」)

だからボクはここでも心随観の重要性を強調しなければならないのである。

考えてみれば、道元禅師の結跏趺坐にしろ、肥田春充の強健術にしろ、
心随観の重要性を説かなかったため型ばかりが一人歩きする結果になった。
どうして心随観の重要性を説かなかったのか?ボクは未だに理解不能である。

とりあえず、それはそれ。とにかく簡易望景内を紹介していくとしようか。

参考資料:望景内で刺激する体軸
前面の体軸の支線 背面の体軸の支線
図・布施仁悟(著作権フリー)

【追伸:2012年1月25日】
ちょっと余裕ができたので記事を書くペースを早めようと思う。
ボクは今年38歳を迎えるんだけど、近頃、悟境の進歩が著しい。
そう遠くないうちに“丹”ができるので、それからは縁覚道に入ると思う。
縁覚道に入ったら沈黙の行に専念しないと悟れないらしいから、
このブログも近いうちに断筆しなければならない。
ここで悟らなかったせいで生まれ変わってまた同じ苦労なんて御免だからね。
たぶん41歳まで沈黙を守ることになると思うから、
もしも、この一連の記事を読んでいる人で要望・質問のある人がいたら、
早めにコメント頂戴。できるかぎり応え、わかる範囲で答えます。

禅・坐禅部門でブログランキング参加中!
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ 記事更新の励みです。
バナークリックで仏の慈悲を!
武術・武道部門でブログランキング参加中!
にほんブログ村 格闘技ブログ その他武術・武道へ 記事更新の励みです。
バナークリックで打つべし!打つべし!
本サイト『電脳山 養心寺』もよろしく!
『肴はとくにこだわらず』へ 電脳山・養心寺で「ちょっとはマシな坐禅」を!
1年以上前のバックナンバーを読めるのはHPだけ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ちょっとはマシな坐禅作法7~白隠・内観の秘法指南~

本来ない“祈り”を坐禅作法に持ち込むのはおそらく邪道なのだろう。

しかし節分の厄除けを奨め、○○祈願お守りを販売する禅寺もあるわけで、
今や百鬼夜行ワールドなのだから、とやかく言われる筋合いは毛筋ほどもない。

むしろ坐禅進歩の秘訣は坐禅開始直後におけるわずか数分の祈りにある。

『真実の呼吸法』の元ネタを公開してあったM・マクドナルド・ベインの本には、
「実修に際しての祈り」として二つの祈りの文言を挙げ、こう記している。

左記の二つの祈りを貴下は毎日熱心にくり返すべきである。最初の祈りは実修するつどその前に、二回目の祈りは実修し終った後に捧げる。 (わずか数分間しかかからないが、そのわずか数分が成功と失敗の大差をもたらす)。
(M・マクドナルド・ベイン『神癒の原理―ヒマラヤ大師の教え』P.102 「4…実修に際しての祈り」)

ボクは臆病な性格なので『真実の呼吸法』の実修にあたって祈りの文言を作り、
それこそ毎日熱心にくり返してきた。(だって、怖かったんだもん)

結果として、このM・ベインの忠告は決してウソではなかったと言える。

「わずか数分が成功と失敗の大差をもたらす」

その効果はちょっと合理的に考えればわかるはずだ。
坐禅開始直後の祈りのおかげで坐禅の方向性を間違えないで済むのである。

矢印マーク 神癒の原理―ヒマラヤ大師の教え
M・マクドナルド・ベイン。
ボクに師があるとすれば彼の著作だとおもう。
仲里誠桔氏の日本語訳したM.ベインの本は、
ボクの知る限り四冊あり、そのすべてを熟読した。
珍しく実践的な行法を録してあるのがこの本。

ところで祈りといったらどうだろう。こんなイメージが先行しているかもしれない。

叶えられるかどうかを怪しみながら願いごとを唱えるナニモノか妖しい儀式。

たとえば欲しいものを手に入れたいとき、病気になったとき、困ったとき。
祈りを捧げる時は心の裏で不安や自己矛盾に突き動かされているものだから、
物事のうまくいっているときに祈りを捧げる人なんて滅多にいないはずである。

ところが熱心な祈りの割にあずかった恩恵は乏しいものではなかっただろうか。
ゆえに叶えられるかどうかを怪しみながら願いを唱える習慣もむべなるかな。
そろそろボクらは“祈りの法則”を正しく知る必要があるだろう。

およそ祈って願うことはすでに叶えられたものと信ぜよ、然らばそのとおりになる。
(マルコ11-24)

これが聖書に記されている“祈りの法則”である。

矢印マーク 聖書―旧約・新約
イタリア人神父が粋に日本語訳した聖書。
イラスト・地図などの資料も豊富で、
旧約・新約、あまつさえ詩篇もついたお徳な一冊。
聖書は坐禅修行にも必ず役立つ。
かりそめにも軽んじてはならない。

これをウソだと思うならちょっと振り返ってみるといい。

心の裏に不安や自己矛盾などの不信感を抱えながら祈願すれば、
不安や自己矛盾を招く状況を「すでに叶えられたもの」と信じることに等しい。
「然らばそのとおりになる」というわけで裏腹な現実に直面することになる。

すなわち“祈りの法則”はボクらのうえに歴然として働いていたわけだ。
よって、これまで“祈りの法則”になんとなく不信感を抱いてきた原因は、
心の裏に巣喰っている不安や自己矛盾にあったことがわかる。

以上から“祈りの法則”を信頼に足るものにする条件を考えてみれば、
心の中から不安や自己矛盾を払拭すればよいことに気づくはずである。
結局、祈りといってもその本質は不安や自己矛盾の正体を暴くことにあり、
それは禅の真髄・心随観にほかならないこともわかるのではないだろうか。

これを踏まえて聖書を読むと、“祈りの法則”の記述の直後に、
自己矛盾を払拭する必要性を説いていたりして懇切丁寧なことこの上ない。

また立って祈るとき、誰かに恨み持っているなら、まずはそれをゆるせ。
(マルコ11-25)

他人をゆるさずに自分だけゆるされて良い思いをしようなんてのは、
自己矛盾もはなはだしいという誰でも納得の論理展開なのだった。

人生なんて聖書を読んだもん勝ちなのである。

矢印マーク 解脱の真理 改訂版―ヒマラヤ大師の教え
つまり心随観の入門書がコレなのである。
霞ヶ関書房の本はAmazonで絶版扱いになっていても
大型書店で注文すれば取り寄せてもらえるはず。
いざとなれば出版社に直接注文するといい。
送料はかかるけどマーケットプレイスでカモられるより、
ずっといい。
参考までに…定価:5250円TEL:03(3951)3407

自己矛盾の原因は実に単純で他人を見限れないことにある。

誰かの言動を気にして道を踏み違えたところに自己矛盾はあるからだ。
肩書きのために職業を決めたり、お体裁を気にしながら見栄を張る。
そこで形成したペルソナ(仮面)の剥がれるのを懼(おそ)れるあまり怒りを生じる。

これは心理学でもおなじみの理論だから理解も容易だと思うけれど、
その処方箋が“見限り”にあることはあまり知られていないようである。

また恨みを克服してゆるすにも、やはり“見限り”を学ばねばならない。
他人を見限って恨みを解消したとき自然にゆるしもやってくるからだ。

だからボクの祈りは“見限り”から始まる。

見限りの祈り
禅者に課せられる試練はどのみち凡人には耐えられないものであり、
ゆえに誰もが今まさに内なる師に導かれているものであります。
したがって禅者の出る幕などどこにもなく、
好きなようにさせておくのが一番でございます。

こうして自己矛盾に方(かた)をつけておいて不安にきりをつける。
ボクの祈りはそういうプロセスになっているから、
次に不安を解消するための祈りに話を進めよう。

矢印マーク キリストのヨーガ―解脱の真理 完結編
解脱の真理の続編。前作の内容をさらに掘り下げている。
心随観のより実践的な内容でありがたい一冊。
続編なのに出版社が違うのはどういわけだ?
参考までに…定価:3360円TEL:03(3439)0705

いずれ悟りをえられたところで菩薩道のためにとりあえず生き続けることになる。
ならばニルヴァーナ(涅槃)よりも生活不安解消の話を先にしてもらいたいものだ。

インド人というものは何ゆえニルヴァーナ第一主義なのかわからないけれど、
おかげで生活不安を払拭するについては仏教経典ではちょっと役不足である。
それがために祈りの本家・キリスト教の聖書にボクはずいぶん助けられてきた。

何を食べ、何を飲み、何を着ようかと心を配ってはならぬ。

それらはみな異邦人が切に望むことである。天の父はわれわれに必要なものをあらかじめ知っておられる。

(マタイ6-31・32)
ゆえに、まず神の国とその義とを求めよ。さすれば、自余(じよ)のすべては添えて与えられん。
(マタイ6-33)
明日を思いわずらうな。明日は明日自身で解決するであろう。一日の苦労は一日にして足れり。
(マタイ6-34)

心に生活不安の湧き上がる都度、ボクはこれらの聖句を何度も思い返してきた。
また、この記述のあるマタイ福音書の14章には有名な水上歩行の場面がある。

イエスは「水上を歩いて渡ってこい」と弟子のペテロに命じた。
そこでペテロが命じられたままにすると水上を歩くことができたらしい。
ところが強風にあおられて不安になったとたんに沈みかけて叫んだ。
「主よ、お助けください!」

そのときペテロを救い上げてイエスの放った一言がいい。

おお、信仰うすき君よ、なぜ疑うのか?
(マタイ14-31)

ボクらは不安に駆られたときペテロのように「お助けください!」と心の中で叫ぶ。

ただし考えてみれば、思いわずらう必要もないことを心配し、
困難を解決する自分の能力を否定しながら神仏の恩寵ばかりを期待している。
それはそもそも疑心暗鬼にとりつかれているからではないのか。

おお、信仰うすき君よ、なぜ疑うのか?

だからボクは心にある疑いを払拭するために祈ることにしている。

不安解消の祈り
いつも諸事遅からず早からず、まさに適切な瞬間に、
救いの手を差し伸べてくださる慈悲に感謝いたしております。

しかし祈りはときに脅迫的だ。
最後の締めに「アーメン」と言いたくなる衝動を抑えられなくなるかもしれない。
禅者のボクらはそこをグッと我慢してお題目でも唱えておこうじゃないか。

祈りの締めのお題目
なーむみょーほーれーんげーきょーう!

結局、祈りが祈願にすぎないうちは常に不安に駆られているものである。

しかし、祈りは、君を祈らせている状態そのものを造り出すことから、心を解放することは決してできないものであることが分かるであろう。ゆえに、そこには常に不安がつきまとっている。
(M・マクドナルド・ベイン『キリストのヨーガ』P.119「第六章 未踏峰ニブルン・リチュンの征服」)

そうした祈りを何度も繰り返した挙句にこういうことに気づくだろう。
もしも願いを叶えてもらったところで不安から解放されるものではない。

祈りには、祈願者への解答などありはしない。また、祈りは祈願への解答でもない!なるほど君は欲していたものを得るかもしれない。だからといって、君が解放されたいと祈っているその状態を二度とは造り出さない、ということにはならないのだ。だから、本当の解決は自分の祈りへのうわっ面の答えを見出すことではなく、君がそれより解放されたいと望んでいる問題を造り出しているところの心の全過程を徹見することにある。
(M・マクドナルド・ベイン『キリストのヨーガ』P.120「第六章 未踏峰ニブルン・リチュンの征服」)

このことに気づいたときから祈りはホンモノになる。
それは坐禅と本質においてなんら変わらないものなのだ。

白隠禅師が『夜船閑話』で紹介した内観の秘法の本質とて同じことである。

矢印マーク 白隠禅師―健康法と逸話
坐禅と氣の関係を明かした本。
内観の秘法と軟酥の法は坐禅の基本。
白隠禅師の『夜船閑話』と『遠羅天釜』で
ちょっとはマシな坐禅をしよう。

『夜船閑話』によると『内観の秘法』とはこのような秘要である。

もしこの秘要(ひよう)を修せんと欲せば、しばらく工夫を放下(ほうげ)し、話頭(わとう)を捻放(ねんぽう)して、まず、すべからく熟睡一覚(こう)すべし。
その未だ睡(ねむ)りにつかず眼(まなこ)を合せざる以前に向て、長く両脚を展(の)べ、強く踏みそろへ、一身の元気をして臍輪(さいりん)気海、丹田腰脚、足心(そくしん)の間に充たしめ、時々にこの観を成すべし。

○我此の気海(きかい)丹田、腰脚(ようきゃく)足心、総(そう)に是れ我が本来の面目(めんもく)、面目なにの鼻孔(びくう)かある。
○わが此の気海丹田、総に是れ我が本分の家郷、家郷何の消息かある。
○我が此の気海丹田、総に是れ我が唯心の浄土、浄土何の荘厳(しょうごん)かある。
○我が此の気海丹田、総に是れ我が己身(こしん)の弥陀、弥陀何の法をか説く。

と、打ち返し打ち返し、常に斯(かく)の如く妄想すべし。

(『夜船閑話序』)

骨盤の歪んでいる現代人は腰から下の脚部に気を充たすこと自体困難なので、
前提条件のところでつまずいてしまうだろうけれど、ひとまずそれは置いといて…。

ここで『内観の秘法』の四句をさらに二句に短縮してみよう。

○わが本来の面目、総に是れ己身の弥陀。
○わが本分の家郷、総に是れ唯心の浄土。

(『夜船閑話序』)

すると第一句の『本来の面目、己身の弥陀』は不安を解消する祈りだとわかる。
己身こそ弥陀。自分の仏性を思い出し自信を取り戻すことを意図したものだ。

そうなると第二句の『本分の家郷、唯心の浄土』は見限りの祈りと気づくだろう。
俗世の人間関係にわずらうことなくあればそこが唯心の浄土というわけである。

したがって『内観の秘法』はその文句をいくら唱えたところで効果はない。
その感味を悟らなければ決して効果を得られない秘法となっているのだ。
たった四句に禅の本質を忍ばせてしまった白隠。やはり只者ではないぞ。

というわけで『ちょっとはマシな坐禅作法』について書いてきたのだけれど、
ここまでの坐禅作法を総合すると禅がいよいよ面白くなってくる。
それでは坐から立ち上がって本質的・日常的な坐禅作法を追求してみよう。

ところが、この続きはまた次回ということで。

【追伸:2012年1月25日】
ちょっと余裕ができたので記事を書くペースを早めようと思う。
ボクは今年38歳を迎えるんだけど、近頃、悟境の進歩が著しい。
そう遠くないうちに“丹”ができるので、それからは縁覚道に入ると思う。
縁覚道に入ったら沈黙の行に専念しないと悟れないらしいから、
このブログも近いうちに断筆しなければならない。
ここで悟らなかったせいで生まれ変わってまた同じ苦労なんて御免だからね。
たぶん41歳まで沈黙を守ることになると思うから、
もしも、この一連の記事を読んでいる人で要望・質問のある人がいたら、
早めにコメント頂戴。できるかぎり応え、わかる範囲で答えます。

禅・坐禅部門でブログランキング参加中!
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ 記事更新の励みです。
バナークリックで仏の慈悲を!
武術・武道部門でブログランキング参加中!
にほんブログ村 格闘技ブログ その他武術・武道へ 記事更新の励みです。
バナークリックで打つべし!打つべし!
本サイト『電脳山 養心寺』もよろしく!
『肴はとくにこだわらず』へ 電脳山・養心寺で「ちょっとはマシな坐禅」を!
1年以上前のバックナンバーを読めるのはHPだけ。

| | コメント (7) | トラックバック (0)

心随観のヒント8~想像から創造へ~

創造の扉はあからさまに開き、いつのまにかひっそりと閉じられる。

ボクは32歳から38歳の間に開く創造の扉をこのようにみているのだけれど、
これを同士ユングは“生の転換点(レーベンスヴェンデ)”と呼んでいたそうだ。

ユングによれば、三十二歳から三十八歳の間に個人の中にある深刻な変容が必ず起こる、と言う。つまり、人生の前半に無視してきた問題や義務や欲求が、この時期になって姿を現すのである。ここで神経症を病む人もある。これこそ、新しい自己実現のための病であって、ユングはこの種の神経症は無意識の出す警告とみなすべきだ、と言う。
(山中康裕『臨床ユング心理学入門』-P.123「第3章 ユングの個性化過程」)

ボクの観察ではレーベンスヴェンデは二つの時期に分けられる。

Ⅰ期は32歳から35歳の誕生日まで。Ⅱ期は35歳から38歳の誕生日まで。

レーベンスヴェンデのⅡ期は潜在能力を磨きはじめる時期なのだけれど、
それはⅠ期に正しい選択をした人だけに許される。とはいえ難しいことはない。
この6年間は創造の扉が全開になっているので迷わずに飛び込めばいいのだ。

Ⅰ期に創造の扉へ飛び込まなかった人にはⅡ期3年間の苦悩が待っている。
心のどこかで創造の扉が閉じ始めていることを感じ取っているようなのだ。
おそらくデリケートな人は神経症を病むことになるのだろう。

ボクは29歳で体調を崩した経験以来、運命の機会に敏感になっていたので、
33歳の“ぷっつん体験”から創造の扉へ飛び込むことに成功した。
なので運命の打撃はできるだけ若いうちに経験して克服しておくべきだと思う。

矢印マーク 臨床ユング心理学入門
禅者は坐禅自体がユング心理学入門だけれど、
普通の人がユング心理学に入門するには最適。

ただしユングの云うようにレーベンスヴェンデは誰にでもある。

今思えば35歳を目前にしたボクの周囲の人たちにも確かにあったようだ。
つまり、それは決まって34歳。その人を取り巻く環境が壮絶に崩壊する。

ある人は酒の席で会社の同僚達から暴行を受けて退職。
また偏屈な上司のいる職場に配属されてノイローゼに陥った人もいれば、
勤めている会社が倒産してしまった人もいる。これみんな34歳だから面白い。

その後は、親のすすめにしたがって職業訓練を受けて転職したり、
人事異動の季節を待ちわびたり、同じ職種で転社を繰り返したりした。

そして38歳。レーベンスヴェンデの最終章はひっそりと幕を引く。
その頃になるとみな揃って健康診断の尿酸値や血糖値に異常を示した。
詳しく訊くと多少の運動くらいでは変われない身体になっていたのである。
さしものチベット体操でさえ効かない身体になっているようなのだ。

チベット体操はかつて32歳のボクに光明をもたらした人生の特効薬。
中年太りのオヤジになってうだつの上がらない人生を送る覚悟した矢先。
チベット体操による身体の変化を体験したことがボクを坐禅へ導いた。

レーベンスヴェンデのⅠ期なら3ヶ月程度で効果を実感できるのに、
38歳を迎える頃にはチベット体操をもってしても効果を得られないなんて…。

肉体は心の成長に随伴して変性することを体感していたボクは言葉を失った。
「今となっては“叡智のささやき”すら彼らの心には響かないだろう…」と。
それと同時に運命の審判は38歳の誕生日にあることも知った。

矢印マーク 成りあがり How to be BIG―矢沢永吉激論集
10代・20代を正しく歩むためのバイブル。
10代・20代の諸君。人生には時節というものがある。
おそらく「聖書」や「経典」を読むのはまだ早い。
まず、これを読んで来たるべきときに備えよう。

創造の扉へはレーベンスヴェンデのⅠ期に飛び込むのがベストだけれど、
誰にでも開かれれているはずの扉に気づかない理由は二つあるようだ。

一つは親の歪んだ愛情を見限れないこと。

たとえば人事異動の季節を待ちわびているうちに35歳を越えてしまう人は、
公務員や安定企業のサラリーマンに多いことだろうと思う。
子供が公務員試験に合格したときに涙を流して喜ぶ親もいるそうだけれど、
自分の潜在能力を腐らせるような人生に幸せなんてあるわけがない。

今、レーベンスヴェンデにある人は、よく耳を澄ませてごらん。
その親の口からは人生を無駄に過ごした言い訳しか出てこないはずだ。

そして、もう一つには貯金がないこと。

レーベンスヴェンデのⅡ期から潜在能力を磨きはじめるためには、
35歳あたりで自分の生涯をかけて没頭できるものを見つけておくといい。
そのためには自分の本心をじっくり見つめる時間がどうしても必要なのである。

だから、いいかい。レーベンスヴェンデこそ人生の勝負時なんだ。
この時期に創造の扉に飛び込まないともう後はないと思って間違いない。

そのとき貯金がなかったら安易な妥協策に走ることになる。
環境崩壊に出会ったら頼るのは職業安定所でも資格予備校でもない。
自分の本心とがっぷり取り組むための貯金なんだ。

よって余計なお世話かもしれないけれど、あえてボクは老婆心を贈ろう。

貯金なくして創造なし!
(布施仁悟)
金あるときにパッパパッパ使ったらイザという時に金がないよ。
(矢沢永吉『成りあがり』より)

そしてレーベンスヴェンデの間に自分の生涯をかけて没頭できるものを探せ!

自分だけがワクワクして没頭できるものなら何だっていい。
たぶんそれは、すぐに収入に結びつきそうにないものだと思う。
おそらくそれは、周囲に相談したところで誰からも反対されるものだと思う。
しかもそれは、人並み以下の努力で容易に身についてしまうものだと思う。
そしてそれを成し遂げられるのは自分だけなのだ。それを探し当てて欲しい。

しかし、その探求の間に絶えず突きつけられてくる疑問がある。

「自分の個人的願望を実現することは宗教的命題に反するのではないか?」
あるいは「運命に自分の意志を差しはさむ余地は残されているのか?」

自分の個人的願望を実現することは“欲を持つ”ということになるため、
“欲を捨てろ”という宗教的命題に反することになりそうである。
一方で運命は自分の意志と無関係だとしたらどんな努力もバカバカしい。

つまり、これは「一体何のために生きるのか?」という命題でもあるのだろう。

矢印マーク GOLDEN BEST
愛の裏側ジェラシー。
部屋のドアーは金属のメタルで。
井上陽水とは哲学者でござるか?

そもそも、こうした疑問はアプローチを間違えているために生じるものだ。

“自分の生涯をかけて没頭できるもの”は這いつくばって探すものではない。
それは探すのをやめたときに見つかるものだからである。

探すのを止めたとき見つかることもよくある話で
(井上陽水『夢の中へ』)

まさしくシンガーソングライター・井上陽水の逆説と言えよう。

“没頭できるもの”は“没頭できないもの”を見分けることで探し当てるしかない。
探し当てられない原因は“没頭できないもの”に執着している心にあるからだ。

不本意ながら給与所得のために勤めている会社。
違和感を感じながらもお体裁のために続けている夫婦関係。
かつて自分をバカにした人を見返してやるために続けている趣味。
心配性の両親を安心させるためだけに就職したお仕事。
学歴コンプレックス解消のために始めた難関資格のお勉強。

これら何ら自分のためにならないものに執着する原因を心に探ってみると、
将来不安、迷い、自分の潜在能力に対する疑心暗鬼などの劣等感が、
もろもろの歪んだ欲望を自分に抱かせてきたことに気づくと思う。

したがって宗教的命題における“欲を捨てろ”の“欲”とは、
この歪んだ欲望のことで意志の力を働かせてはいけないとは云ってない。
むしろ自分の意志の力を働かせろと云っているのである。

自分の心に巣喰う将来不安、迷い、疑心暗鬼に気づいて乗り越えるたび、
意志力や精神力は次第に強化され、終局、根源的欲求にたどり着く。
それが“自分の生涯をかけて没頭できるもの”なのだ。

そして、この根源的欲求は自分の個人的願望には違いないのだけれど、
それでいてどういうわけか宇宙の経綸に合致してしまうものでもある。

というのはこの根源的欲求に従っていると周囲の出来事が円滑に運ぶからだ。
精密な機械時計のように運命の歯車とキッチリ合って行動しているときは、
自他へ同時に利益がもたらされるため、人間は最も満足を覚えるのである。

業(カルマ)を解消した心に基づいて設計される運命は信頼に足るものなので、
もはや「運命は変えられるのか?」などと疑問を発する必要もない。
しかも、利己的であることが非利己的であることにまったく等しくなるのだ。

ではちょっと命題に立ち返ってみよう。

一体何のために生きるのか?

くだらぬ!くだらないぞ、そんな疑問は。ボクらは生きているから生きるんだ。

矢印マーク 5つのチベット体操-若さの泉・決定版
29歳から38歳までを無駄に過ごしてしまった人でも、
29年周期の星まわりにしたがって、
58歳から67歳の間に再び効力が現れるみたい。
この本はその年代にある人向けに書かれたようだ。
体操はたったの五つ。時間にして10~20分程度。
何でそれが続かないのかね?
どんな特効薬も服用しなければ効き目はないよ。

さて、人生のお楽しみはここからだ。

創造の扉へ飛び込んだ人は自分の中に芽生えてくる才能に気づくと思う。
絶好の機会を的確につかまえる嗅覚。
相手の人品を見透かす心眼。
ひとたび本を読んだら文の行間に隠れている意味が立ち上ってくるだろう。
そして、たとえば芸術作品の独創性を見分ける感性。
それから、問題解決や仕事のアイデアを得るときのインスピレーション。

これらは全部これまで眠っていたミューズの仕業である。
でもその才能は目醒めたばかりだから大切に育てなければいけない。
はやる気持ちを抑えてじっくり育てる覚悟を決めて欲しい。

なぜならこの時点では世間の誰もその才能には気づけないからだ。
その目醒めはじめた才能を見抜けるのは同じ慧眼を備えた禅者のみ。
残念ながら世間一般の凡人にはそれがない。呆れるくらい“おバカ”なのだ。

でもここで勘違いしたらせっかくの才能も台無しである。
才能とは“愛すべきおバカちゃんたち”に智慧を授けるためにあるからで、
ゆえに“自分の生涯をかけて没頭できるもの”もそういう性質を持っている。

ここから先の課題は、したがって、こういうことになるだろう。
凡人とその社会の中で自分の天才を如何に発揮するか?
すなわち凡人にもわかるように才能を練磨しなければならないのである。

矢印マーク 変な人が書いた成功法則
読みやすいため理解は容易なのだけれど、
頭で理解するのと痛感するのとでは次元が違う。
一度読んだくらいでわかったと思ったら大間違いだ。
著者・斎藤一人さんは声聞道の大家なのである。
「声聞道って何よ」って言ったらコレなのよ。
『変な人が書いた驚くほどツイてる話』
と合わせて声聞道二部作ってとこかな。

この時点でのアドバンテージは独創的な才能を目醒めさせたことのみ。
絶品レシピがあっても中華鍋を振れなければ炒飯一つまともに作れないように、
才能だけで技術を伴わなければ誰もその業績に刮目(かつもく)することはない。
そこでまずは仕事の技術を磨く具体的な努力を必須条件とする。

創造の成否はこの努力を自分の中からいかに引き出せるかにかかってくる。

最初はその努力も空しく作品やアイデアを評価されることはないだろう。
恋人は「あなたがわからなくなったの」と別れを告げ、友人にはからかわれる。
母親は「あなたが心配ばかりかけるからよ」と鏡の前で薄い髪の毛を梳かし、
飼犬と戯れている父親は背中で呟く。「まともな仕事に就いたらどうだ」。
その努力を挫くような出来事をあげれば枚挙に遑(いとま)はない。

ただしその“努力を挫くような出来事”こそ内なる師の指導なのである。
心の中にある将来不安、迷い、才能に対する疑心暗鬼を克服させんがために、
内なる師がそそのかしているのだと考えてみるといい。
すなわち試練を逆手に取ってミューズの栄養源とするべきなのである。

また困難に拍車をかけているのは試練を克服する特効薬のないことだ。
ただ心に湧きあがってくる将来不安、迷い、疑心暗鬼を何度でも叩きつぶし、
自分の中に目醒めはじめたミューズを信じ切るしかない。

そこでまずは“牽引の法則”を試すことから始めてみよう。
ミューズは誰の中でもこのように働くからだ。

人間には、とてつもなく不思議な力があります。寝ている間にあなたの想念がその目的をつかむ、これが牽引(けんいん)の法則です。
(斎藤一人『変な人が書いた成功法則』P.203「目標は決して口に出さない」)

ボクがこの牽引の法則に気づいたのはシステムエンジニア(SE)時代のことだ。
SEとはコンピューターに魔法をかけるプログラムを操る仕事人。
そして、その実態は、ただの“はったり屋”である。

SEの辞書に不可能の文字はない。
どんな案件だろうと「おまかせください」と答えておいて後から必死こいて調べる。
解決できなければお金で手を打つまでだ。その奥の手を“外部発注”と呼ぶ。
どちらにしろ手柄は全部自分のものだからそれで無問題なのである。

ただし“必死こいて調べる”段階は一番つらい。
ボクが長時間残業で額や脇にねっとりと汗をかく方法をとっていた当初は、
まわりの先輩SEもそうしていたので定時で帰れる雰囲気ではなかった。
ところが2~3年経って仕事を覚えた頃から定時で帰るようになる。

その方が効率のいいことに気づいたからだ。
前日に長時間残業しても解決できなかった問題が翌朝には数分で解決できる。
だからボクは難しい仕事を午前中に片付けて、単純な仕事は午後に後回し。
定時前に翌日解決したい問題点を洗い出して帰るという風にした。

この仕事のコツを知っている人と知らないでいる人の差はすぐに出る。
いつの間にか最も実力をつけていたし最新の技術に触れる機会にも恵まれた。
おかげで天狗になってしまった自分の性格が嫌になって退職したのだけれど、
ボクの発見した方法は天才画家サルヴァドール・ダリ様の秘伝でもあるのだ。

諸君はおそらく、これからまさに描こうとしている絵にとっては、眠っている時間などまったく非活動的で無駄な時間だと考えているだろうが、この点はしっかり理解してほしい。精神の最深淵で、緻密で複雑な技術上の問題点のほとんどは、この睡眠のあいだに解決されている。逆に目覚めているあいだはけっして解決しない。
(サルヴァドール・ダリ『ダリ・私の50の秘伝』P.33「秘伝3」)

ミューズは深夜の眠っている間に働いてくれている。
この事実を信じることは必ずや創造的人生の出発点になるだろう。

すると睡眠の定義は逆転し生活の中心は活動から睡眠にシフトするはずである。
つまり「活動のためだけに眠る」から「よりよい眠りのために活動する」へ。
夜明け前の“真の眠り”の時間に創造のための天啓すら得られるかもしれない。
ちなみに知る人ぞ知る“真の眠り”とはギリシアの哲学者・プラトンの命名である。

もちろん疲労の度合いは日によるから完璧な睡眠法なんてないのだけれど、
人を創造活動へ誘う“真の眠り”を効果的に引き出す秘儀ならば存在する。
その鍵を握っているのはスズキの目玉だ。

まずは焼いたスズキの頭のフェンネル添えを夕食にいただこう。
そこで準備するスズキの目玉は全部で三つ。

ベッドに寝そべったら、目玉を口から出す。うち一つを掌(てのひら)に置き、残り二つは小さな本か黒い箱を膝に置いてその上に並べる。距離のとりかたにコツが要る。人さし指を二つの目玉の前に置いて、視線を人さし指に集中させる。二つのスズキの目玉は重なり一つになる。自身の眼との精確(せいかく)な距離がそうさせるのだが、双眼視(そうがんし)のミステリーといっていい。この目玉には催眠効果があるようだ。だからその晩はできれば、これを見ながら就寝するのがたいへん望ましい。
この、一つになった二つの目玉を固定したとき、さらに必要なことは、第三のスズキの目を取り出し、交差した人さし指と中指で優しく撫(な)でることだ。すると奇跡といっていい感覚に出会う。

(サルヴァドール・ダリ『ダリ・私の50の秘伝』P.42「秘伝5」)

この秘儀を疑うなんてもってのほかである。
なぜならそれは天才ダリ様がそうおっしゃっているからだ。

矢印マーク ダリ・私の50の秘伝―画家を志す者よ、ただ絵を描きたまえ!
これほどの秘伝を自覚し公開した天才が他にいるだろうか?
救世主ダリ様!
あなたの公開してくださった秘伝を試そうともしない
哀れなわれわれ凡人をおゆるしください。
ああ、私もダリになりたい…。

しかし「ダリってだりだ?」という向きには仕方ない。これでどうだ。

矢印マーク どんどん目が良くなるマジカル・アイ プレミア版 TJ
身体の歪みが視力低下の原因。
だから、これで目が良くなるかというと、
それはちょっと違う。
ただし身体の歪みの原因は心の歪みにある。
心の歪みに気づくための集中力のコツは、
これでつかむといい。
間接的に視力回復につながるというわけだ。

実はダリ様の秘儀は数年おきにブームの到来する立体視のことである。

立体視を続けていると目を閉じたときに紫色の光が見えてくる。
これは目を閉じて瞑想している人なら集中力の深まる頃にみえてくるもの。
この光をみながら寝る習慣をつけると寝つきは良くなり眠りも深くなるはずだ。
つまりダリ様は就寝前に立体視で集中力と創造力を養っていたことになる。

ただし“牽引の法則”を用いるコツは睡眠や集中力だけの問題ではないらしい。
というのもSEの仕事を退職して公認会計士の試験勉強を始めた途端に、
ボクのミューズは働いてくれなくなったからだ。覚えたそばから忘れるのである。

ボクがSEを退職した動機には“35歳定年説”の存在も大きい。
日進月歩のコンピューターの世界の技術屋は35歳で頭打ちになるというものだ。
名の知れた企業に勤めていた父親の人格がろくに成長しないのを見ていたから、
あえて小さなソフトウェアハウスに就職したことも将来不安を助長していた。

その活路を公認会計士の肩書きに求めたのは父親の呪縛みたいなもので、
要するにボクは肩書き以外に寄るべのない父親と同じ道を選んだことになる。
こうして人生の選択を間違えているときミューズは窒息してしまうのだ。

逆に将来不安、迷い、疑心暗鬼を克服して人生を軌道修正し始めると、
ミューズは再び息を吹き返してくる。そこには名状しがたい感覚があった。
まさに必要としているものが周りに集まりはじめ、正しい方向に導かれるから、
自分が正当の流れに乗っているという“フロー感覚”を体験する。

たとえばボクはこの表現なんかが好きだ。

そうすると、歯車がキチッと合ってきます。だから、仕事はおもしろいのです。
(斎藤一人『変な人が書いた成功法則』P.215「今日のアイデアは今日行う」)

ただし“フロー感覚”の描写という意味ではキングに勝る書き手はいないだろう。

才能は練習の概念を骨抜きにする。何事であれ、自分に才能があるとなれば、人は指先に血が滲み、目の球が抜け落ちそうになるまでそのことにのめり込むはずである。誰からも相手にされないにしても、行為それ自体が絢爛たる演奏に等しい。表現者は満足を覚える。それ以上に、陶酔境に入ることさえしばしばだろう。ことは楽器の演奏や、野球の打撃や、フルマラソンの完走ばかりではない。本を読み、物を書くについてもまた同じである。
(スティーヴン・キング『小説作法』-P.171-172「小説作法」)

この“フロー感覚”の様子をありていに言えば“仕事ジャンキー”だろうか。

正直な話、私は仕事中毒の根暗人間と思われたくはない。仕事中毒はその通りだとしてもだ。ありていは、作品に取りかかっている間は毎日書くというだけのことである。仕事中毒の根暗人間かどうかの問題ではない。クリスマスも、七月四日も、誕生日も関係ない。だいたい、この年齢になると誕生日など思い出したくもないのが普通だろう。反対に、書かないとなると、いっさい書かない。ただ、仕事をしていない時はどうにも気持が中途半端で寝付きが悪くなる。やはり、書かずにはいられない。書いている間は楽天地である。
(スティーヴン・キング『小説作法』-P.176「小説作法」)

どうやら六日間で天地を創造した神は、自身は七日目に休んでおきながら、
その子供たち・人間には休みを与えてくれないおつもりらしい。

矢印マーク 小説作法
これぞ名著。文章もかっこいい。
でも…あたりまえか。
だってキングだもの。
なんで絶版にするかね?

ここで誤解されてはいけないのではっきり断っておいたほうがいいだろう。

もしも“フロー感覚”を得られるならサラリーマンでも家業を継いでもかまわない。
重要なのは“社会の仕組み”以前の“宇宙の仕組み”に乗っかることだからだ。
たまたまボクの場合は「サラリーマンは正解ではなかった」というだけの話で、
運命の妙は人それぞれ。杓子定規にはいかないようなのである。

では最後の仕上げの段階を説明する前におさらいをしておこうか。

レーベンスヴェンデの創造の扉に飛び込むことは“ぷっつん体験”を意味する。
このとき坐禅修行によって気の体を育成していれば第一の結節が解ける。

その後、将来不安、迷い、疑心暗鬼を克服するうちに35歳あたりで、
“自分の生涯をかけて没頭できるもの”がおぼろげながら見えてくる。
ここから牽引の法則を用いたミューズとのダンスレッスンを始めるといい。

ミューズと息のピタリと合う“フロー感覚”を知る頃になれば、
心に巣喰う将来不安、迷い、疑心暗鬼をはっきり認識していることだろう。
後はそれを叩き潰すのみだ。この時期に第二の結節は解ける。

そうしてぶち当たるのが“想像の壁”。それは人間のオツムの限界である。
創造性の発現のためにはこの“想像の壁”を乗り越えなければならない。

創造の扉に飛び込んだ人の慧眼に映るものは何かといえば、
“想像力”による業績と“創造力”による業績の違いである。
つまり“凡人”と“秀才”と“天才”の業績の違いを知るのだ。

せっかくここまできたのに凡人に逆戻りする手はないだろう?
したがって最後の仕上げの段階は“秀才”から“天才”への飛翔である。
そのためにはオツムの使い方自体をコペ転しなければならない。

ではどうやってコペ転を成し遂げればよいのか?
天才のことは天才に聞け!というわけで再びダリ様に登場願おう。

スズキの目玉三個に導かれて得た「真の眠り」から目覚めたばかりの絵描き初心者諸君は、仕事を始める時間は朝と決めていただろうが、これまではむにゃむにゃ、だらだらと、眠いだけの時間だっただろう。それはもう終わりだ。まったく反対になる!たっぷりとった休養、前夜の睡眠にもかかわらず、とくべつぱっちり目覚めた気分でいる諸君、いまこそ眠り続けることが必要だ。しかし今度は、もっと難しい方法で。可能な限り目覚めていながら、眠らなければならないからだ。
(サルヴァドール・ダリ『ダリ・私の50の秘伝』P.43「秘伝5」)

これがオツムの使い方をコペ転して“想像の壁”を突破する方法である。

可能な限り目覚めていながら眠れ!

われわれ禅者の目指している境地もここにある。

矢印マーク 解脱の真理 改訂版―ヒマラヤ大師の教え
つまり心随観の入門書がコレなのである。
霞ヶ関書房の本はAmazonで絶版扱いになっていても
大型書店で注文すれば取り寄せてもらえるはず。
いざとなれば出版社に直接注文するといい。
送料はかかるけどマーケットプレイスでカモられるより、
ずっといい。
参考までに…定価:5250円TEL:03(3951)3407
矢印マーク キリストのヨーガ―解脱の真理 完結編
解脱の真理の続編。前作の内容をさらに掘り下げている。
心随観のより実践的な内容でありがたい一冊。
続編なのに出版社が違うのはどういわけだ?
参考までに…定価:3360円TEL:03(3439)0705

ここまできた禅者ならこれからボクの語ることがよくわかると思う。

きっと将来不安、迷い、疑心暗鬼を見つめる心随観にかなり長けているだろう。
こうした劣等感は創造性を認めようとしない心によって生じたもので、
その原因は「人生そんなに甘いもんじゃない」などの迷信に基づくことも知った。

それらの創造性を認めようとしない心を克服できたかどうかも、
心の饒舌(おしゃべり)が次第に少なくなってくる静けさの中で知っている。
少なくなってくるというより劣等感にすぐに気づけるという感じかもしれない。

そうして、ついには自我=心がおのずから饒舌(おしゃべり)を止めるまで、
根気よく心随観を続けてゆくなら、その静けさの中に創造性を発見するそうだ。

「それでは、どうすれば創造性が獲得できましょうか?」

「創造性は獲得できるものではない。君が徹見しなければならないのは、創造性を認めようとしない働きだ。それを徹見することは、自我を徹見することになるのだ。心が自我の要求より解放されると、平安が生ずる。この平安の中にこそ創造性があるのだ。それは努力をしなくても、あるいは苦闘しなくても、おのずからにして出現する。なぜなら、それは常在であるからだ。創造性は瞬間より瞬間にわたって存在している。しかし、君らは創造性をつかめば、創造性が表現できるだろうと思って、それをつかみたがる。しかし、それはできない。なぜなら、創造性は心を超越し、時間を超越しているからだ。従って、創造するためには、君は時間の中で機能(はたら)くことをやめなければならない。自我が死んだ時、生命が現前する。同様にまた、創造性が現前する。

(M・マクドナルド・ベイン『キリストのヨーガ』P.181-182「第十章 「死」の恐怖からの解脱」)

こざかしい理性で創造性を手に入れようとするとき“想像の壁”は出現する。
心であれこれ考えて手に入れようとするものは想像の産物にすぎないからだ。
創造性は逆に心の動きを止めたとき、当たり前にそこに在る。

可能な限り目覚めていながら眠れ!

自我の眠りはとりもなおさず無念無想。ボクら禅者の目指す境地である。

心が心自身を変性させて真理に成ることなど、できるはずはなかったのである。また、心が真理を発見することもできるはずはなかったのである。真理を開示するには、心は静かでなければならない。そうして初めて時間に属さない静けさ、強いられない、あるいは強制されない静けさ、より来るところの静けさがあったのである。心が饒舌(おしゃべり)をやめた時、その静けさの中に「実在するもの」「知られざるもの」が現前したのであった。これが、創造性(creativeness)であったのだ。わたしにはもはや、結果を求める欲望はなくなった。すべての行動はやみ、すべての思考はやんだ。これが最高の形態の思考だったのだ。なぜなら、今やそこには創造性があったからである。
(M・マクドナルド・ベイン『キリストのヨーガ』P.47-48「第二章 キリストのヨーガを求めて」)

しかし創造のカラクリを知ろうとする瞬間に創造性はその手からこぼれ落ちる。

『知り得ざるもの』が裡(うち)なる創造の本源であり、それが創造するのである。併(しか)しそれ自体は常に『創造されざるもの』、『知り得ざるもの』の儘(まま)でいる。創造されたものは知ることができるが、『創造するもの』自体は何時までたっても知られずにいるのである。
(M・マクドナルド・ベイン『解脱の真理』P.361「第十二章 隠者様の説く解脱の真理(二)・再び俗界へ」)

したがってボクらの才能とは創造性を独り占めにすることではないのだ。

あなたは、真理をまるでシャベルやつるはしであるかのように使うことはできない。なぜならば、使い得るとするならば、あなたは真理よりも偉大であるということになり、そんなことは不可能だからである。しかし、もしあなたが真理を悟り、それを使役しようなどと考えずに、真理自らが働くままに打ち任せるならば、その時真理はあなたの人生とあなたの諸関係とに基本的な変質をもたらす。しかも、その働きは甚大にして広大、無限、広範である。
(M・マクドナルド・ベイン『キリストのヨーガ』P.102「第五章 「希望=不安」との決別」)

やはりボクもこの辺で心の饒舌(おしゃべり)を止めたほうがいいだろう。

Case8 創造性発現のための言葉の処方箋

ミューズは自我の眠っている間に働いてくれている。

準備は見えない舞台裏で着々と進むもの。
(布施仁悟)

そうして歯車がキチッと合ってくると誰でもこうなる。

仕事の極意はやるはめになったことを淡々とこなすこと。
(布施仁悟)

そんな仕事ジャンキーにとって凡人とその社会のアラ探しはつまらない。

“アラ探しをやめられた人”から成功します!
(斎藤一人)
凡人とその社会のアラ探しほど才能の枯渇を招くものはない。
(布施仁悟)

いずれ才能が備わっても天狗になるなよ。

神仏のはからいを独り占めすることはできない。
(布施仁悟)

どのみち創造性のカラクリを知ることなんてできないのだ。

わからないものはわからないままでいい。
(布施仁悟)

心の饒舌を止めるには心随観で養った能力を総揚げして向かえ!

すべては心随観のごく自然な延長としてやってくる。
(布施仁悟)

やっぱり最後は心随観万歳!というところに帰着するのであった。

さしあたり心随観についてボクの語れることはここまでだ。
あとは禅者各自の努力あるのみ。以上、『心随観のヒント』をここに記す。

【追伸:2012年1月25日】
ちょっと余裕ができたので記事を書くペースを早めようと思う。
ボクは今年38歳を迎えるんだけど、近頃、悟境の進歩が著しい。
そう遠くないうちに“丹”ができるので、それからは縁覚道に入ると思う。
縁覚道に入ったら沈黙の行に専念しないと悟れないらしいから、
このブログも近いうちに断筆しなければならない。
ここで悟らなかったせいで生まれ変わってまた同じ苦労なんて御免だからね。
たぶん41歳まで沈黙を守ることになると思うから、
もしも、この一連の記事を読んでいる人で要望・質問のある人がいたら、
早めにコメント頂戴。できるかぎり応え、わかる範囲で答えます。

禅・坐禅部門でブログランキング参加中!
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ 記事更新の励みです。
バナークリックで仏の慈悲を!
武術・武道部門でブログランキング参加中!
にほんブログ村 格闘技ブログ その他武術・武道へ 記事更新の励みです。
バナークリックで打つべし!打つべし!
本サイト『電脳山 養心寺』もよろしく!
『肴はとくにこだわらず』へ 電脳山・養心寺で「ちょっとはマシな坐禅」を!
1年以上前のバックナンバーを読めるのはHPだけ。

| | コメント (7) | トラックバック (0)

心随観のヒント7~声聞道実践~

そこには約20年のハンデがあった。

ボクの興菩提心体験は33歳。一方で、ユングのそれは12歳。
星まわりに遵(したが)って42歳の覚醒へ至る縁覚道の軌道に乗るためには、
それは38歳から始まるものらしいので、残りのリミットは約5年間しかなかった。

12歳で因果律のカラクリに気づいたユングのセンスには脱帽するけれど、
その約5年間で成し遂げたボクの巻き返しも大したものだと今にして思う。

ここで、誤解されるとやっかいだから、はっきり断っておこう。
つまり、これは自負であり自慢である。
ボクはユングの約25年間の声聞道をたったの約5年間で駆け抜けてきた。

縁覚道以前の修行過程である声聞道は興菩提心から始まるのだけれど、
時代や国籍などの環境は違っても声聞道の過程自体は誰でも同じらしい。
ボクはこの事実を『ユング自伝Ⅰ』で知った。「ユング、オマエもかっ!」

すなわちボクの選択してきた修行法と日常の出来事から得られた教訓は、
ユングの選択した特殊な職業とその人生で起こった事件から得られた教訓に
まったく一致していたのである。

したがってボクの解説する声聞道は“ユング式声聞道”と言ってもいい。
興菩提心を通過した禅者ならボクやユングと同じ足跡を辿ることになるだろう。

矢印マーク ユング自伝―思い出・夢・思想 (1)
「ユング、オマエもかっ!」
禅者なら体験できて当たり前。
悟境確認用に禅者の家に一冊いかが?

人生の各時期には課題がある。それを禅的に人生公案といってもいい。

とはいっても拳(こぶし)を固めて身構えるようなものではない。
「その嫉妬深い性格なんとかならんのかね?」
「そろそろ今の仕事に飽き飽きしてんじゃないの?」
「今さらフラれた女をどうこう言うなんて未練がましくてイヤだねえ」
みたいなお茶目なテーマを一つ一つクリアしたらよいだけなのだ。
ところが、これを難しく言うと“執着を捨てる”ということになる。

課題に気づいたらそれを克服して次の課題に移るまでの話なのだけれど、
常識、道徳、伝統、信仰、倫理を基礎とした社会の仕組みにたらし込まれて、
ほとんどの凡人はあえなく撃沈されているというわけである。

こうして無駄に歳を重ねて手に負えないほど山積みとなった課題は、
人のカルマを構成し、星回りにしたがって節目ごとに掃きだされる。
それは運命の打撃のように見えて、その実、気づきを促すカルマの鉄槌。
節目の歳に巻き込まれる事件に遭遇した時こそ運命変革のチャンスなのだ。
絶好の機会に適切な対応をとれば声聞道はたったの5年でも十分なのである。

しかし、これは最後の切り札みたいなものかもしれない。
ユングのようにセンスに恵まれている人は余裕を持って成長を遂げるのに、
凡人のボクは運命のショック療法によってギリギリ追いつくしかなかった。

とはいえボクは絶好の機会を適切にとらえる方法しか知らないので、
凡人出身のボクとしてはボクの歩いてきた声聞道を解説する次第である。

このニサルガダッタの言葉はその基本姿勢を適切に表現していると思う。

すべてが失敗したとき、人生が教えるのだ。だが、人生の教訓は長い時を必要とする。 信頼し、服従することによって多大な遅延と困難が回避される。
(『アイ・アム・ザット 私は在る』-P.491「91 快楽と幸福」)

つまりボクの声聞道は内なる師の指導を信頼して服従するというものだけれど、
その内なる師の意図を推理洞察するためのそこばくのテクニックがある。

それを三つばかり紹介してみたい。

矢印マーク アイ・アム・ザット 私は在る
結局このニサルガ・ヨーガに行き着いたのは驚きだ。
ニサルガダッタ・マハラジはあまりにクール。
そのため当初は冷徹な印象を受けたものである。
でも実はそれが本当の慈悲であり愛だった。
愛は神であり、神は愛である。
ゆえに愛はパラドックスである。

まずは基本となる応用心随観から解説してゆくのが筋道だろう。

声聞道実践技法その一:応用心随観

これは日常生活にあらわれる内なる師の声なき声を聞くためのテクニックで、
前回の記事で簡単にふれたこのフレーズから始めるといいと思う。

「また内なる師がそそのかしていやがる」

“困ったちゃん”や“困った状況”に出会ったときにこう考えてみることで、
周囲の環境ではなく自分の心の中に解決策を探ることになるからだ。

そうすると“困ったちゃん”や“困った状況”を“困った”にしている原因は、
あれこれとつまらない回想に精を出している“困った自我”にあるとわかる。

「いつもコイツのせいでとばっちり喰ってばかりだ」
「商売をやるなら誠実でなければならないのに、セコイね、ここの店員は」
「何か悪い予感がする。うまくいった例(ためし)がないからなあ」

こうした何かとしつこい回想を何度も繰り返している自我に気づいたら、
その“困った自我”の作り出す困った回想を止めてしまえばいい。

そのときに使うボクのお気に入りのフレーズはこれ。

「それがどうした」

これで困った回想を止めたうえで言葉の処方箋によって止(とど)めを刺す。

要するに坐禅の最中や机上で記憶をたよりに実践してきた心随観を
日常生活の中にも応用して実践するわけである。

もしも同じ人物が何度も同じ失敗を繰り返したり、嫌な行動をとるようなら、
それが内なる師の声なき声だと思って間違いない。

そうして困った自我の困った回想が浮かび上がってこなくなる頃には、
その人物の問題行動が気にならなくなるだけでなくピタリと止むはずだ。

もちろん「それがどうした」というフレーズは別の表現にしてもいい。

「困ったことは起こらない」

これは『変な人が書いた成功法則』の著者・斎藤一人さんの方法論。

私がここ何年か長者番付で事業家の中でトップになるようになって、週刊誌が「斎藤氏は親の面倒をいっさい見ない」といった類の、いろいろな噂(うわさ)を書くようになりました。
でも、私はこれでも親の面倒は見ているつもりです。それなのに、週刊誌にそんな記事が出るものですから、私の家の近所の人から、
「斎藤さん、親の面倒は見てあげたほうがいいよ」
と言われてしまうのです。
この言葉に、私は、一瞬ムッとしてしまいました。
「ふざけるな!」と思ってしまったのです。
でも、よく考えてみると、私が「親の面倒を見ない」と近所の人から思われることで、私はいったい何に困るというのでしょうか。
そんなことを思われても、私は三度三度のご飯を食べることができますし、仕事のほうもとても順調にいっています。
私の親だって、ちゃんとご飯は食べていますし、旅行に行ったりして楽しく暮らしています。
私に困ったことは起きていないし、誰も困っていないのです。
そう思い直したら、いつのまにかくだらない噂も消えてなくなってしまいました。

(『変な人が書いた成功法則』-P.22「「困ったことは起こらない」と考えると」)

彼は「困ったことは起こらない」と考えるだけで成功してきたそうだ。
そして、これはこのフレーズの効用を説明したもの。

私が言いたいのは、そういうふうに考えると気持ちが楽になりますよ、ということではありません。
「困ったことは起こらない」と考えたときに、現実が変わるということを知っていただきたいのです。

(『変な人が書いた成功法則』-P.21「「困ったことは起こらない」と考えると」)

ボクもまったく同感である。

矢印マーク 変な人が書いた成功法則
読みやすいため理解は容易なのだけれど、
頭で理解するのと痛感するのとでは次元が違う。
一度読んだくらいでわかったと思ったら大間違いだ。
著者・斎藤一人さんは声聞道の大家なのである。
「声聞道って何よ」って言ったらコレなのよ。
『変な人が書いた驚くほどツイてる話』
と合わせて声聞道二部作ってとこかな。
矢印マーク 変な人が書いた驚くほどツイてる話
声聞道の本質はここにしっかり書かれてある。
しかも自分の言葉で説いてあるから読みやすい。
本当にわかってないとこういう風にはいかないよ。
『変な人が書いた成功法則』
と合わせて声聞道二部作だ。

次に声聞道実践技法の二つめとしてボクは夢観(ゆめかん)をおすすめしたい。

声聞道実践技法その二:夢観

夢観は具体的な修行法として挙げられることはあまりないようだけれど、
日本の仏教界では明恵上人が夢日記を付けていたことで有名である。

32歳からの一時期。『夢分析』を著したフロイトに師事していたユングもまた、
夢分析によって無意識層を探求し内なる師との対話を成し遂げていた。
彼の創造性の発現はこの時期に学んだ夢分析によって加速したはずである。

後に決別したもののユングはフロイトの『夢分析』の功績をこう称(たた)えている。

彼が我々の文明に与えた衝撃は、彼の無意識への道の発見から出ている。夢を無意識過程にかんする最も重要な情報源とみなすことによって、彼は取り返しのつかないまでに失ったかのように思われる道具を人類の手許に取り返したのである。
(『ユング自伝Ⅰ』-P.242「ジクムント・フロイト」)

そして、これは『夢学(ユメオロジー)』よりパトリシア・ガーフィールドの言葉。

夢のもつ意味はあなたの考え方ひとつで決まる。
…夢には深い意味があると考えれば、あなたは深い意味のある夢をみてそれを覚えていることだろう。

(パトリシア・ガーフィールド『夢学(ユメオロジー)』-P.244「第九章 夢をコントロールする力を伸ばす方法」)

とりとめのない夢に大した価値のあるわけもなくナンセンスな話だと思えば、
まさしくナンセンスな夢しか観れない。夢とはそういうものなのである。

夢観とは夢の価値を認めて夢を分析してみるだけという単純なものなのに、
内なる師の指導の意図を推理洞察する能力を磨ける。その効果は計り知れない。
夢の価値を認めた禅者なら絶好の機会を逃すことはないとボクは信じている。

それではボクの夢観体験から具体的な例をいくつか挙げてみよう。

トラウマ提示型の夢

まずは“体育ジャージと水泳パンツの夢”。
学校の体育ジャージや水泳パンツを忘れるという夢をボクは何度も観ていた。
忘れモノをした言い訳や体育の授業をサボる口実を考えている夢である。

ボクは泳げないわけでもないのに小学校の水泳の授業が嫌いだった。
というのも小学校に入学する前に公園の池で溺れた経験があったからだ。
そのときは大事に至る前に父親に引き上げられて助かったのだけれど、
父はどういうわけかボクの濡れたパンツを車の屋根に放置したまま発車。
ボクのちょっぴりウンコのついたパンツは帰り道で晒しものになったわけで、
そのときに感じた恥辱が水に対するトラウマになっていたに違いない。
水泳パンツをわざと忘れたりして水泳の授業をサボることがしばしばあった。

今度はその時に感じていた罪悪感が新たなトラウマを生み出して、
“体育ジャージと水泳パンツの夢”をボクに観せていたのだと思う。
過ぎたことに罪悪感を感じなくていいと気づいたらこの夢を観なくなった。

こうした“トラウマ提示型の夢”に気づいている人は多いのではないだろうか。

教訓提示型の夢

次に挙げるのは別パターン。“教訓提示型の夢”である。

これは自分の考えることは物事の一側面にすぎなくて、
そこから導かれる判断は独断にすぎないと気づきはじめた頃に観た夢。

周りにいる知人たちが何やら楽しそうに何かの作業をしていた。
ボクもそのメンバーの一人だったのでボクは周囲に聞いてまわった。
「ねえ、何やってんの?」「何か手伝うことはないか?」
ところが、返ってくる答えはひとしなみに決まっている。
「ん~ん、内緒、内緒」
「いいの、いいの、君はみてるだけでいいんだよ」
「ここにはないな。他を当たってみてよ」
それで夢の最後に聞いたやつはこう答えた。
「君には教えられねえな」
頭にきたボクはそいつの鼻っ柱を殴った。
すると、そいつは机の角に頭をぶつけて倒れ、辺りは血の海と化した。
その瞬間、ボクの後ろにいた女性の声が響いてきた。
「なんてことしたの?みんなでアナタの誕生日パーティの準備をしてたのに」

この“教訓提示型の夢”は“気づき”の深まってくる頃にダメ押しの形で観る。
目覚めたら汗びっしょりなこと請け合いだ。心臓発作を起こさないようご注意を。

問題解決型の夢

最後に挙げておきたいのは“問題解決型の夢”だ。

たとえば『詳説ぷっつん体験』で紹介したような時節の到来を知らせる夢などで、
このタイプの夢は智慧や明らかなメッセージ性を帯びているのが特徴。

ボクは夢の中に出てきた爺さんにストレッチを教えてもらったことがある。
その爺さんの教えの一つに「足首を回すといい」というものがあった。
もちろんはじめは半信半疑だったのだけれどヨガの本などを読み返すと、
足首というのは全身の神経の集中する部位なので念入りにまわせとあった。

記憶の片隅にあったものが夢の形になったのか、それとも叡智の囁きなのか。
ボクは“叡智の囁き”だと思いたい。だって、その方が夢があるではないか。

もう一度繰り返すけれど夢が意味を持つのは夢の価値を認める時だけである。
しかもその解釈は他の誰にも委ねることはできない。

夢はあなたの最も個人的な表現であるかもしれない。あなた以外の誰も、あなたの夢が意味するものを言い当てることはできない。
(パトリシア・ガーフィールド『夢学(ユメオロジー)』-P.237「第八章 夢日記のつけ方」)
夢に適切な連想を働かせることのできる人物は、あなたをおいてほかにいないのだ。夢のシンボルに連想を働かせながら、あなたの夢のいくつかをまるごと別の形に移し替えてごらんなさい。そうすれば、あなたは自分自身について多くのことを学ぶことができる。
(パトリシア・ガーフィールド『夢学(ユメオロジー)』-P.237「第八章 夢日記のつけ方」)

内なる師の指導の意図を推理洞察する能力は夢観で効率的に磨けるため、
坐禅などの行をしていないユングでも悟境の格段の進歩を得られたのである。

さらにユングの選択した精神科医という職業も悟境の進歩に一役買ったはずだ。

矢印マーク 夢学(ユメオロジー)―創造的な夢の見方と活用法
夢は創造性の扉。
夢を制する者は人生を制する。

次の声聞道実践技法は黙聞観(もくもんかん)。精神科医なら必須の技術だろう。

声聞道実践技法その三:黙聞観

黙聞観の重要性はD・カーネギー『人を動かす』にまつわる出来事で気づいた。
『人を動かす』は人間関係を好転させるコツを余蘊(ようん)なく書きとめた名著。
言わずと知れた自己啓発書の王様である。

大学一年のときに矢沢永吉『成りあがり』のエピソードでこの本を知ったボクは、
普通は逆なんだろうけど、帰省した際に44歳サラリーマンの父にプレゼントした。

母いわく「若い連中の考えてることがわかった気がすると言ってた」そうだから、
とりあえず職場でこの本にある処世術の方法論を実践してみたらしい。

ところが50代を迎えた父は出世街道から見事に外れ犬とキャンプに入れあげた。
約10年の歳月を無駄に過ごして54歳転落組になってしまったわけである。

50代も後半になる頃には焼酎をあおったついでにこう呟くようになっていた。
「オレはいつも出世の邪魔をされてきた」
なんでもそれは、偏屈な上司への付け届けを怠ったことに始まり、
同僚に悪い噂を流されたことで決定的となり、
時には母の器量の悪さも手伝って、こうなってしまった次第であると結論づけた。

こんな風に悪果の原因を自分の心以外の事象に責任転嫁しているかぎり、
「自分がこれだけ親切にしているのに…」といった感情を拭(ぬぐ)えない。
それは相手にも確実に伝わるからどんな処世術も恩着せがましくなるのだ。

やはり『人を動かす』の方法論はうまくいかなかったらしく、父の本棚には
『上司が「鬼」とならねば部下は動かず』という本がいつしか並んでいた。

『人を動かす』の効果について著者D・カーネギーはこう述べている。

重ねていう。本書の原則は、それが心の底から出る場合にかぎって効果をあげる。小手先の社交術を説いているのではない。新しい人生のあり方を述べているのである。
(D・カーネギー『人を動かす』-P.300「PART4-人を変える九原則」)

『人を動かす』は小手先の処世術を述べたものではなかったのである。

誰でも運命の分かれ道にはそれを乗り越えるためのヒントを与えられるもので、
父もこの本の真意に気づいていたら54歳転落組にはならなかっただろう。

思い出のD・カーネギー『人を動かす』は父の本棚に今でも眠っている…。

矢印マーク 人を動かす 新装版
小手先の処世術だと思ったらしっぺ返しを喰らうだろう。
化けの皮は剥がれるものと相場が決まっている。
この本を活かすにはもうひと越え必要なのだ。

『人を動かす』は有名なので向上心のある人なら一度は読んでいるはずである。
ところが、そのほとんどの人において読書の効果を持続できていないと思う。

どんな処世術を駆使してもちょっと付き合えば心の中を見透かされるものなので、
化けの皮はそう遠くないうちに剥がれると相場が決まっているからだ。

そうなるのも“禅者の謙虚さ”を身に付ける努力を怠っているためである。

汝の内なる師の導きを信頼して頭(こうべ)をたれ、
而(しこう)して、隣人の内なる師の導きも信頼し耳を傾けよ。

(布施仁悟)

とりわけこの認識に欠けているならどんな処世術にも効果はない。

問題を解決する能力は誰の中にも眠っている。
(布施仁悟)

たぶん声聞道を実践して“禅者の謙虚さ”を身に付けはじめたならば、
「人を動かせる人は、人を動かそうとしていない」という逆説に気づくだろう。

精神科医のユングは患者との対話の中でこの逆説に到達したらしい。

実は治療は患者の中から自然に芽生えてくるべきものである。
(『ユング自伝Ⅰ』-P.191「Ⅳ 精神医学的活動」)
私は患者を何かに変えようとは決してしなかったし、何らの強制も行わなかった。私にとっていちばん重大なのは、患者が物事について彼自身の見解をうることである。
(『ユング自伝Ⅰ』-P.201「Ⅳ 精神医学的活動」)

どうやらユングは、その過程で“見限り”も学んでいたようである。

私はもし患者が彼に示されている道を進みたがらず、その結果に責任をもちたがらないならば、その点を決して無理強いはしない。
(『ユング自伝Ⅰ』-P.205「Ⅳ 精神医学的活動」)
抵抗は、ことにそれが頑強なときには注目に価する。なぜなら、抵抗はしばしば看過されてはならない警告だからである。治療は必ずしもすべての人が手に入れられるとは限らない。それは毒薬かもしれず、あるいはまたそれが禁忌である場合には、致命的なことが立証される手術なのかもしれない。
最奥の体験へ、また人格の核へ達しようとするところではどこでも、たいていの人々は恐怖に打ち負かされ、多くは逃げ去るものである。

(『ユング自伝Ⅰ』-P.205「Ⅳ 精神医学的活動」)

このときユングが患者との対話で用いていた技法こそ黙聞観なのだ。

これはボクの言う黙聞観の技法に焦点を当てた本である。

矢印マーク 愛と癒しのコミュニオン
これが『人を動かす』処世術の基礎となる。
黙聞観は小手先の対話術ではないから、
自分の心を観察してこそ効果がある。

この本では黙聞観を『アクティブ・リスニング』という名称で紹介している。
いわゆる“聞き上手”になるための方法論でその対話の基本原則は5つ。

[アクティブ・リスニング]
「批判しない」
「同情しない」
「教えようとしない」
「評価しない」
「ほめようとしない」

要するに対話の相手を無理に変えようとする言葉を極力使わない対話術で、
その禁句の類型をアメリカの心理学者のトマス・ゴードンが十二にまとめている。

○命令、指示
「これ、がんばってみたら」
○注意、脅迫
「あとで後悔しても知らないよ」
○訓戒、説教
「やめておいたほうが身のためだと思うよ」
○忠告、解決策などの提案
「私なら、こうしてみるけど」
○講義、講釈、論理の展開
「まだ分からないとおもうけど、そういうものなのよ」
○判断、評価、批判、反対、非難
「そんな考え方には賛成できないな」
○賞賛、同意
「さすがだね。その通りだと思うよ」
○悪口をいう、ばかにする、辱(はずかし)める
「それでよく恥ずかしくないね」
○解釈、分析、診断
「君の不徳のいたすところだな」
○激励、理解、同情
「ちゃんとうまくいくから、大丈夫だって」
○探る、質問、尋問
「それで君は、何をしたいの?」
○中止、撤退、注意をほかへそらす。笑いにまぎらす。
「こんな話をしてもラチがあかない。まずは行動しなくちゃ」

(参考:鈴木秀子『愛と癒しのコミュニオン』-P.41-44)

これらは相手に「自分は受け入れられていない」という感覚を抱かせるそうだ。
ただし四角四面に受け取ると賞賛や激励や質問の言葉もイケナイわけだから、
あいづち以外は何にもできないことになる。

もちろん決してそういうことではなく、この対話術の極意は、
自分の心に浮かんでくる賛成・反対意見の一切を静めることにある。

矢印マーク いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか
坐禅修行のプロセスを正確に記述してある唯一の本。
(2011年1月現在・ボク調べ)
こういう本が市場に出回っている現在、
秘密にしておくことなんてもはや何もないはずである。
そろそろまともな禅書を誰かが出版しても
いいのではないだろうか?

このあたりことはR・シュタイナーの『いか超』に詳しい。

特別の重要さをもつのは、他の人間の語る言葉に耳を傾ける仕方である。この修行のためには、自分自身の内なるものを完全に沈黙させる習慣をつける必要がある。誰かが意見を述べ、他の人がそれに耳を傾けるとき、通常は後者の心の中に賛成、反対のいずれかが反応として現れる。その場合多くの人はすぐさま、賛成、特に反対の意見を外に表したくなる。しかし神秘学徒は賛成、反対のいずれの意見をも沈黙させねばならない。
(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』-P.062-063「霊界参入の三段階」)

つまり黙聞観は処世的な対話術ではない。自分の心との対話なのである。

一切の合理的な判断を沈黙させるだけでなく、拒否や反感または賛同の気持をも沈黙させることが大切である。特に細心の注意を払って観察せねばならないのは、意識の表面に現れて来ない、魂の奥底にひそむ感情の動きである。たとえば何らかの意味で自分より劣ると思われる人の発言に耳を傾けながら、あらゆる種類の優越感や知ったかぶりを抑制することが必要なのである。
(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』-P.062-063「霊界参入の三段階」)

黙って相手の話を聞き自分の心の動きを観察するから黙聞観。

黙聞観を習慣にしてゆくと対話の相手は本音を語り出すものである。

自分とは正反対の意見が述べられるときにも、「見当はずれな意見」がまかり通るときにも、没批判的に傾聴する修行を積み重ねていく人は、次第に相手の本質的部分と融合し、同化することができるようになる。相手の言葉を聴く行為を通して相手の魂の中へ自己を移し入れる。
(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』-P.063-064「霊界参入の三段階」)

意志疎通を成し遂げられるのは相手を変えようとしないときだけで、
相手との信頼関係もそうした心境にあるときにのみ確立できる。
これは誰でも経験的に気づいていることではないだろうか。

ただし常に黙聞観をやろうとしたら疲れるだけなので計画的に実践するといい。

とはいえ、自分の生活態度を一変させて、このような徹底した内的沈黙を守り通すべきだというのではない。自分で立てた予定に従って、選ばれた個々の場合にこの行を実践すればよい。そうすれば時とともに、自然な仕方で、傾聴という新しい態度が習慣化されるようになる。
(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』-P.063「霊界参入の三段階」)

以上の応用心随観・夢観・黙聞観といった声聞道実践技法を行じていれば、
節目の歳に遭遇する絶好の機会に選択を間違うことはないはずである。

それはボクの観察では32歳から38歳までの間に遭遇するもので、
42歳以降の天職遂行へと通じる“ぷっつん体験”に関する機会と選択のことだ。

その時期に“ぷっつん体験”を成し遂げた禅者は、天職を模索しつつ、
潜在能力を目覚めさせる行を並行して実践することになる。

それは想像から創造への飛翔。オツムの使い方をコペ転しなければならない。
では『心随観のヒント』の最後に潜在能力の覚醒テクニックを書き残しておこう。

【追伸:2012年1月25日】
ちょっと余裕ができたので記事を書くペースを早めようと思う。
ボクは今年38歳を迎えるんだけど、近頃、悟境の進歩が著しい。
そう遠くないうちに“丹”ができるので、それからは縁覚道に入ると思う。
縁覚道に入ったら沈黙の行に専念しないと悟れないらしいから、
このブログも近いうちに断筆しなければならない。
ここで悟らなかったせいで生まれ変わってまた同じ苦労なんて御免だからね。
たぶん41歳まで沈黙を守ることになると思うから、
もしも、この一連の記事を読んでいる人で要望・質問のある人がいたら、
早めにコメント頂戴。できるかぎり応え、わかる範囲で答えます。

禅・坐禅部門でブログランキング参加中!
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ 記事更新の励みです。
バナークリックで仏の慈悲を!
武術・武道部門でブログランキング参加中!
にほんブログ村 格闘技ブログ その他武術・武道へ 記事更新の励みです。
バナークリックで打つべし!打つべし!
本サイト『電脳山 養心寺』もよろしく!
『肴はとくにこだわらず』へ 電脳山・養心寺で「ちょっとはマシな坐禅」を!
1年以上前のバックナンバーを読めるのはHPだけ。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

«心随観のヒント6~声聞道入門~