Impossible Trial 4-2~禅者のための心随観講座~

Mission 4 心随観をマスターせよ
矢印マーク ポケットの中のダイヤモンド―あなたはすべてをもっている
ボクは心随観の実践例をこの本の中でしかみたことがない。
この著者はホンモノの瞑想を伝えようとしている。
だけど文才がまるでない。“玉に瑕”とはまさしくこのこと。
残念ながら絶版。古本屋で見つけたらマストバイだ。

もしも、蝶をつかまえ、花を摘み、星を愛でるようなことを欲しているなら、
坐禅ではなく自慰にふけって刹那的なエクスタシーに倒錯していればよろしい。

神様・仏様を見方につける、宇宙から幸運を引き寄せる、
天使がいるとかいないとか、超能力を身につけるとか、
そういうことを目指して坐っているだけのクルクルパアなら、
これから授けようとする心随観には耐えられないからやめておけ。

ボクはこれから諸君の心を握りつぶし、土足で踏みつけ、
ナイフでめった突きにし、血祭りに上げてやるつもりでいる。

理不尽で非道徳にも聞こえようが、ボクは偽善者ではなく禅者である。
それが道徳的に正しいかどうか。そんなことは大して気にならないのだ。
そもそも、それが慈悲であり愛なのである。

非常に近しい人間関係、中でも親子、恋人、夫婦の間では、人は傷つくことが多々あります。それがどうしたというのでしょう?傷ついたとき、それはまるで世界の終わりのように思えるかもしれませんが、そうではありません。傷つけば痛みます。どれくらい傷つきたいか、ではなく、どれくらい傷ついてもいいと思うか、それは、あなたがどれくらい愛し、愛され、愛から学ぶ意思があるか、を意味します。愛はあなたの教師です。ただし、それは決してあなたに、傷つくことを避けよとは教えません。
(ガンガジ『ポケットの中のダイヤモンド』P.254-255「40 自覚した無邪気さ」)
愛を信じなさい。愛があなたを傷つけるなら、徹底的に傷つきなさい。ズタズタになりなさい。愛によって真っ二つに引き裂かれた心から、もっと深い愛が姿を現すように。
(ガンガジ『ポケットの中のダイヤモンド』P.255「40 自覚した無邪気さ」)

人は傷つくまいとする度に心の重荷を一つ増やし、
傷つけまいとする度に心の重荷を一つ減らす。
(布施仁悟)

この“傷つくまいとする心”と“誰かを傷つけようとする心”。
そこに諸君の劣等感は潜んでいる。
心随観を修することは、この劣等感と真正面から対峙することに他ならない。
無意識の壁の大部分は劣等感を素材として築かれているからだ。

それでは劣等感と対峙して無意識の壁に風穴をあける心随観を授けよう。
心随観はこうするのだ!まずは、その心の傷に向かって意識の進路をとれ。

矢印マーク ブッダの瞑想法―ヴィパッサナー瞑想の理論と実践
坐禅の入門書としては最適な本。
というのは葬式仏教の坊主が嘘つきだってわかるから。
だけどね。ここに書いてある心随観も嘘なんだよ。
そこに気づいたら卒業というわけ。

たとえば、ここにオツムの固い昭和のおとーさんがいるとしよう。
出世コースを外れた空しさから参禅しはじめたサラリーマン。影山道夫54歳だ。

その日は夜勤で、仮眠を取りながら会社で一夜を明かすことになっていた。 17時頃、総務のおねーちゃんから健康診断の結果を受け取って道夫は青ざめる。
「糖尿病の疑いアリ」
考えてみれば掛け金を払ってきた保険の内容も良く覚えていない。 20時を過ぎて不安になってきた道夫が家に電話をかけると息子が出た。

「ちょっとお母さんにかわってくれないか」
「今いないよ。さっき電話があって今日はしばらく帰らないって」
「ど…どうしてだ?」
「美女の会で友達とお食事だって。たまにはハメをはずさせてもらうとさ」
「な…なぬぅ!いい歳こいて美女の会とは何事だっ!どうせケチなババアの集まりじゃないか」
「そういうことなら本人に言ってよ。じゃあね」

道夫のオツムにはたちまち想念が湧き上がる。
<<亭主が今まさに辛い仕事をしているというのに、オレの稼いだ金でその妻が遊び歩いているなんて>>

その瞬間…今まで聞いたこともない心の声が響いてきた。
<<もしかしたら自分が間違っているのかもしれない>>

道夫はその正体まではわからなかったけれど、そこに不快な“心のわだかまり”があることを54歳にして始めて知った。それに、滅入るにまかせて酒で気分を紛らわせてきたこれまでの自分とは違うつもりだった。参禅している電脳山養心寺の布施仁悟老師は初対面の時にこう言ってくれたのだ。
「54歳で参禅してくるとは素質がおありですね」
当初は弱冠37歳の若い老師に不信感を抱いていた道夫も、その一風変わった法語聞きたさに足しげく通うようになっていた。今こそ学んだばかりの心随観の技法を試してみよう、と道夫は思った。

<<もしかしたら自分が間違っているのかもしれない>>

この心の声の発せられる瞬間が心随観の入口である。
そこで、行住坐臥、いつでも心の声に耳を傾けておくようにするといい。

さて、自分自身を知るためには、あらゆる瞬間ごとに、強制することなく、駄目だと決めつけることなく、あるいはまた、正当化することなく、絶えず(自分の心の状態に)気づいていなければならない。ものごとをあるがままに見る一種の受け身の警戒状態にあらねばならない。
(M・ベイン『キリストのヨーガ』P.77「第四章 「サタン」の正体は「自我」である」)

すると日常の中の些細な出来事すべてが心随観の修行道場と化すのである。
また心の声の発せられる瞬間をヴィパッサナーでは“サティ(気づき)を入れる”
と呼ぶそうだから、ここでもそれを便宜的に踏襲したい。

最終的には日常に転がる様々なケースにサティを入れ続けてゆくことで、
三つの心の性質のうちの一つ目の特徴を自然に学ぶことになる。

心の性質その一:心はいかに彷徨うのか?

もし君が甲の想念は正しく、乙の想念は間違いであると言ったところで、それは空しい。君が突きとめなければならないのは、なぜ心がさまようのかということなのだ。
(M・ベイン『キリストのヨーガ』P.73「第四章 「サタン」の正体は「自我」である」)

正誤善悪の判断を下したとき。心の声は強く響いてくる。
<<もしかしたら自分が間違っているのかもしれない>>
このサティが入ったら、次に突きとめなければならないことがこれ。

心の性質その二:心はいかに欺くのか?

電脳山養心寺の便所へ続く渡り廊下は長い。

その壁には老師直筆の書がびっしりと貼られていて、便所の中にまで貼り付けてあるものだから、嫌でも眼に入ってきてしまう。おかげで参禅者の間では“相田みつをもどき”と老師は呼ばれていた。

『宝蔵は心のわだかまりの奥にある』

便所の金隠しの正面に張りつけてあった書の言葉が浮かんだとき、老師の法語が思い出されてきた。
「みなさんには心が彷徨って随息観を続けられなくなる瞬間があるかと思います。そんなときは随息観に戻ってはいけません。どうして心が彷徨うのかを探求してください。 “呼吸のリズムに戻れ”とか“集中の対象に戻れ”なんて指導する方もいらっしゃるようですけれど、それは皆さんにはまだ早いのです。そうすべき時節がきたら私が頃合よろしく教えます。ちゃんと皆さんのこと見てますからね。私の目玉はみなさんの便所にだってついて廻っているんですよ」
たしかにそうかも、と道夫は思った。

<<亭主が今まさに辛い仕事をしているというのに、オレの稼いだ金でその妻が遊び歩いているなんて>>

…オレの考え方が間違っているのかもしれない、と道夫は考えてみる。亭主が金を稼ぎ家族を養うのは当たり前の構図である。妻の久美子が家事をそつなくこなしてくれていることには何の不満もなかった。留守の間に貞淑の仮面を破ってどこかの男とシケ込んでいるわけでもない。食べ歩き仲間と作った「美女の会」とかいうやつの大それた名称は納得できなくとも、それはそれ。道夫の人生には何の過不足もないはずで、そう考えてみると、オレがどうかしているのかもしれない、と思えてきた。

そこへかつての同僚が顔を出してきた。同じく出世コースから外れたよしみで近頃再び親しくなってきた飲み仲間だ。
「道夫ちゃん、今日これからどう?いやあ、宝くじ十万円当たってね。オレ、おごっちゃうからさ」
「何だよタイミング悪いな。今日、夜勤なんだよね。また今度頼むよ。で、宝くじ当たったの?いいねえ、ツイてるねえ」
「そうなんだよ。でもよ、カミさんがね、友達同士で韓国に行きたいからそれ頂戴とか言い出してね。これ、オレの小遣いで当てたのよ。だから、きっぱり言ってやったんだ。オマエは三食昼寝つきでテレビ観放題じゃないか。そのうえ海外旅行だなんて虫がよすぎるってね。だいたい結婚してから働きづめで亭主のオレだって海外旅行なんか行ったことないのによ。女房甘やかすほど情けない男じゃねえよ、オレさまは。なあ、そうだろ?」
「うん、まあ、そうかもな」

…オレの稼いだ金でその妻が遊び歩いているなんて、やはりおかしいと道夫は思った。
妻を甘やかすほどの情けない男になったらお天道さまに申し訳が立たない気もする。「男に生まれたからには男らしく生きなければいかん」とは死んだ父親からの遺言のようなものだった。同僚にだってバカにされているような気がして道夫は落ち着かない。

…道夫は妻の久美子に不満のあることを思い出した。
出世コースから外れたことがわかったときにこう漏らされたのだ。
「アタシだってがんばってきたんだけど…残念だわね」
オレの出世の足を引っ張りやがったくせに、と道夫は思う。一人娘である久美子の両親の介護に疲れて働きざかりの40代を棒に振った。あれさえなければもっとやれたはずなんだと道夫は思ってきたのである。

…ひとつとっちめてやろう、と道夫は思う。
久美子の作るオムライスはいつも不味かった。チキンライスはべたついているし、それを包むのは火の通り過ぎた薄焼き卵。結婚以来、久美子の作る料理にケチをつけたことはないけれど、今度こそ文句を言ってやると道夫は思った。
「オレはパラパラのチキンライスと半熟卵のオムライスを食べたいんだ!」と。
「オマエのオムライスなんか一度たりともウマいと思ったことはない!」と。
矢印マーク 解脱の真理 改訂版―ヒマラヤ大師の教え
つまり心随観の入門書がコレなのである。
霞ヶ関書房の本はAmazonで絶版扱いになっていても
大型書店で注文すれば取り寄せてもらえるはず。
いざとなれば出版社に直接注文するといい。
送料はかかるけどマーケットプレイスでカモられるより、
ずっといい。
参考までに…定価:5250円TEL:03(3951)3407
矢印マーク キリストのヨーガ―解脱の真理 完結編
解脱の真理の続編。前作の内容をさらに掘り下げている。
心随観のより実践的な内容でありがたい一冊。
続編なのに出版社が違うのはどういわけだ?
参考までに…定価:3360円TEL:03(3439)0705
矢印マーク 脳内復活―脳科学がたどりついた「幸福」の原点
布施仁悟のおとーさんはオツム固いからね。
こういう理論的な本から坐禅に入門したわけよ。
たまにそっちが正解だったってこともあるから、
わからないもんだよね、これ。

この続きは近いうちに。

【追伸:2012年1月25日】
ちょっと余裕ができたので記事を書くペースを早めようと思う。
ボクは今年38歳を迎えるんだけど、近頃、悟境の進歩が著しい。
そう遠くないうちに“丹”ができるので、それからは縁覚道に入ると思う。
縁覚道に入ったら沈黙の行に専念しないと悟れないらしいから、
このブログも近いうちに断筆しなければならない。
ここで悟らなかったせいで生まれ変わってまた同じ苦労なんて御免だからね。
たぶん41歳まで沈黙を守ることになると思うから、
もしも、この一連の記事を読んでいる人で要望・質問のある人がいたら、
早めにコメント頂戴。できるかぎり応え、わかる範囲で答えます。

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Impossible Trial 4-1~禅の公案とは何か?~

前回のミッションから約二ヶ月経過したことになるけれど、
禅者諸君におかれましては無駄に過ごしたものと思われる。

チベット体操を続け、朝晩の坐禅を欠かさず実践している。
無論、その素質と努力は認めよう。
たしかに諸君はその辺の凡人よりはマシな部類に属する。

ところで新しい心の契約は幾つノートに書き込まれているかね?
禅的三密観の効果とその真意はわかってきたかね?
心随観のコツを掴むことはできたのかね?

素質と努力だけではどうにもならないものがある。
それは、いうなればセンスだ。
禅者諸君に欠けているそのセンスを今回は取り戻してもらう。

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常識、道徳、伝統、信仰、倫理を疑わなければならないことは、
前回のミッションを読めば誰だって理解できることである。
ただし、それを意識の奥深くでの痛感に変えなくてはいけない。

ところがそこには壁がたちはだかっている。“無意識の壁”だ。
両親、友人、教師、メディアなどから吹き込まれた常識を盲目的に受け入れ、
諸君は、そこに多少のアレンジを加えて無意識的に行動してきたのである。
諸君のこれまでの人生など夢遊病者のごとく徘徊的に生きてきたにすぎない。

そのため無意識の壁をブチ破る方法を学ぶ機会にも恵まれなかったから、
怒りや嫉妬などの怨念の粗相(そそう)をまき散らしてしまうのである。

この無意識の壁は坐禅の“修行”で破ることはできない。
その壁を突破するのは業(カルマ)を解消する“修業”以外に無いからである。

しかし、もしもボクが“修業”の話を始めようものなら、
おそらく諸君の心は即座に拒否反応を示すに違いない。
あるいは自分に都合のよい話だけを受け入れようとするかもしれない。
それが“無意識の壁”だ。

何か或る善くない考えが心の中に入り込むとどんな事が起るか。その影響から逃れるためにそれを払いのけようとするのではないか。しかしその正体がよくは把握されていないために、その影響は依然として残っている。自分の想念の正体をよく把握して対処しないと、足掻(あが)き、糾弾し、非難し、揚句(あげく)にその影の反対のある考えに無理に自分の注意を向けようとして、反ってその為に一層葛藤を造り出してしまう。こうして物の考え方が、少しも創造的ではない無益な苦闘の中に捕らえられてしまうのが分からないのかね。
(M・マクドナルド・ベイン『解脱の真理』
-P.225「第八章 匿名師の説く解脱の真理・患者指導の仕方(二)」)

ボクは葬式仏教の学者坊主ではないからお茶を濁すようなことは言わない。
ここからは容赦なく“修業”の話をするつもりなのだ。
そのとき、心がどうして拒否反応を示したのか?
どうして都合のよい話だけを聞こうとするのか?
その想念の正体を暴いた禅者だけが進歩できることを覚えておいて欲しい。

矢印マーク キリストのヨーガ―解脱の真理 完結編
解脱の真理の続編。前作の内容をさらに掘り下げている。
心随観のより実践的な内容でありがたい一冊。
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では最初に、無意識の壁をすり抜けて魂の力を再生する物語の価値を考えよう。
“修業”はそこから始めるのが王道だ。
ただ物語の話であるからまずは文学論をひとつぶってみたいわけである。

とにかく、われらが日本の文学は諸外国のものに比べて程度が低すぎる。
お情けでいただいたノーベル文学賞受賞者までノイローゼで自殺する有様なのだ。
現在のところ日本の文学とは“ノイローゼ文学”と評価せざるをえない。
その元凶を考えてみるに儒家の祖・孔子に突き当たるだろう。

たとえば誰もが知っている芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を例に考てみよう。
芥川は“慧眼”と“閃き”を備えていた秀才だ。文章の“技”も立つ。
その彼がどうしてまことにつまらない道徳的なオチをつけてしまったのか?

たしかに明治に入ってからの言文一致運動で新しい文体は生まれた。
ただその精神は未だに徳川三百年の儒学の呪縛から脱皮していないのである。
芥川龍之介もまた抜け出すことのできなかった一人なのだ。

“慧眼”と“閃き”を授かった者は真理に忠実であることを要求される。そのため、
世間的な道徳におもねることは真理を曲解させることになるから苦痛を伴う。

そこで芥川は“慧眼”を持っていたがゆえに耐え切れずに自殺を遂げた。
節操のない才能の浪費をすることは彼の自尊心が許さなかったのだと思う。
なんとか乗り越えて欲しかった。

孔子という人物は40歳で悟りながら権力にすり寄っていった落伍者だ。
映画『スター・ウォーズ』で譬(たと)えるならこういうことになるだろう。
フォースの暗黒面に堕ちたダース・ベイダー卿。それが孔子なのである。
彼が信念を捻じ曲げて「義」だとか「礼」なんてことを言い出したことが、
現代になってもボクらの社会や人生に暗い影を落としている。

だから21世紀の日本を生きるボクらは老子の叫びに耳を傾けよう。
「大道すたれて仁義あり」「礼は忠信の薄きにして乱のはじめなり」
老子はさしずめジェダイマスター・ヨーダと言ったところだろうか。

矢印マーク スター・ウォーズ ダース・ベイダー ボイスチェンジャー
このマスクさえあれば君も孔子になれるぞ。

一方で西洋の作家は寓意(ぐうい)を含んだ物語の創作に長じていたりする。
その“慧眼”と“閃き”を遺憾なく発揮している作品が多いのだけれど、
それは民間伝承されている童話の影響ではないかと思う。
三つ子の魂百までというからその産湯(うぶゆ)をつかったかどうかの差は大きい。

それらの童話の元ネタはイスラムにある。
西洋の童話はイスラムのスーフィーの伝承物語と地下水脈でつながっているのだ。
その民間伝承されている物語の価値に気づいた作家がロシアにいた。

矢印マーク スーフィーの物語―ダルヴィーシュの伝承
こういうものは幼い頃から読んでおくべきだ。
これは、いわばイスラムの公案集。
禅の公案より入門しやすい。
というより、遥かにその上をいっている。

ボクはロシアの文豪・トルストイが晩年に残した民話集で物語の価値を知った。

「意味は解らない、それでいて、わだかまる」そんな話ばかりで、
その幼い頃にうけた印象がずっと花の種のように心の奥に潜んでいたらしく、
ボクが坐禅を始めた時分から開花し始めた。意味が解るようになったのである。

おそらく禅の公案というのはこういうものなのだと思った。

スーフィーの修行場では、弟子は導師から与えられた物語に心を集中し、弟子の理解が一定の段階に達したと判断されると、導師はその物語に秘められているさらに深遠な意味の次元へ弟子を導いてゆく。
(イドリース・シャー編著『スーフィーの物語』-P.1~2「序文」より)

道徳的な物語は理性を満足させるだけで“わだかまる”ということは絶対にない。
一方、真理の寓意を含んだ物語は読む人の心に“わだかまり”を残してゆくものだ。

この“わだかまり”は特に正誤善悪の判断を下したときに禅者の心に強く響く。
「もしかしたら自分が間違っているのかもしれない」
イスラムの神秘家スーフィーはこの物語の特性を利用して弟子を導くのである。

精神的真実を含む物語は、本や映画という形をとって、すでにそれを必要としなくなった人たちにさえも愛され続けるだろう。それらはまた、自我の防衛システムに気づかれずに、物語を通してしか届くことのできない人たちの中に覚醒の最初のきっかけを与えるという重要な役割を担っている。
(ガンガジ『ポケットの中のダイヤモンド』-P.010「序文 エックハルト・トール」)

この聖書の聖句も、このことを言っているのである。

イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、
たとえを用いないでは何も語られなかった。

(マタイ13-34)

すなわち優れた物語は無意識の壁をすり抜けて悟りの種子を心に植えるのだ。
そこで、まずは旧約・新約聖書や法華経の喩話を読んだりして、
心の中に“わだかまり”をたくさん作っておくといい。

参考として、ボクに“心のわだかまり”を作ってくれた本と映画を挙げておく。

矢印マーク トルストイ民話集 イワンのばか 他八篇
この作品集の『洗礼(なづけ)の子』でボクはわだかまった。
『三人の隠者』というお話は『スーフィーの物語』にもあって、
中央アジアの何処かの国からロシアにも伝わったようだ。
ロシアに文豪の生まれる秘密がわかった気がする。
矢印マーク あるヨギの自叙伝
インドのヨガ行者の修行記。
悟境の深まりにつれてエピソードに込められた真意が立ちのぼる。
そのとき物語は警句となり教訓となって迫ってくる。
聖者独特のぶっ飛んだユーモアも楽しい。
よく書き残してくれたと思う。
聖典『バガヴァッド・ギーター』入門書としても最適。
矢印マーク 無我と無私 禅の考え方に学ぶ
弓聖・阿波研造のもとで悟ったドイツ人哲学者の稽古記。
頭の固い現代日本人と合理主義のドイツ人は発想が同じ。
著者・ヘリゲルの迷いと疑問は現代日本の禅者にも通じるはず。
コチコチオツムのボクにとっても非常に参考になった。
この本の訳が一番読みやすいと思うんだけど絶版。
別の訳もあるみたい。
福村出版『弓と禅 改版』・岩波書店『日本の弓術』
矢印マーク マトリックス [Blu-ray]
救世主・ネオは弥勒菩薩。
それを信じるモーフィアスは不軽菩薩。
預言者はネオは救世主ではないと仄めかすけれど、
ネオは救世主としての役割を演じきる。
ボクらは一人一人が弥勒菩薩にならなければならない。
これは妙法蓮華経の表出の一例である。
文学や映像文化の持つ無限の可能性をボクは信じている。
矢印マーク スター・ウォーズ コンプリート・サーガ
小学校の低学年の頃。ボクは20時には寝ていた。
日曜洋画劇場で眠い目をこすりながら観たのを覚えてる。
劇中の“フォース”とは真理の持つ無限の創造力の象徴。
衆生本来仏也。“フォース”は誰にでも備わっている。
「ルーク、フォースを使え!」
フォースとともにあらんことを。

この“心のわだかまり”ができると無意識の壁に気づけるようになる。
というのは自分の身口意の動きに疑問を発するようになるからだ。

前回のミッションで紹介した「禅的三密観」の行を実践してみても、
何をやっているのかさっぱり理解できなかった禅者もいると思う。
それはまだ“心のわだかまり”の形成が不十分だからなのである。

「もしかしたら自分が間違っているのかもしれない」

この疑問を自分の心に常に発することができるようになったら、
「禅的三密観」の行は卒業してよろしい。

その頃には自分の身口意の動きに無意識であった状態から、
その動きを常に意識している状態に変わっているはずだからである。

矢印マーク ポケットの中のダイヤモンド―あなたはすべてをもっている
ボクは心随観の実践例をこの本の中でしかみたことがない。
この著者はホンモノの瞑想を伝えようとしている。
だけど文才がない。“玉に瑕”とはまさしくこのこと。
残念ながら絶版。古本屋で見つけたらマストバイだ。

次にすべきことは“心のわだかまり”にくっきりとした輪郭を形成することである。

具体的には自分の身口意の動きを常に意識している状態をさらに進めて、
自我=心が無意識に暴走してしまう原因をつきとめる段階に入るわけだ。

その手法が前回のミッションで簡単に解説した心随観なのだけれど、
これもまた意味のわからなかった禅者が多いと思う。

ただし、あれが心随観の基本。というか…本質なのだ。
諸君にセンスさえあればこの二ヶ月を無駄に過ごさずに済んだはずである。

だから今ここでしっかりと気づいて欲しい。
諸君は瞑想や坐禅の行法に関する本を何冊も読んできたことと思う。
あの行法、この行法、と渡り歩き、数々の技法を試してきたかもしれない。
しかし、どの本も、どの行法も、ホンモノではなかったのである。
諸君は無意識の壁に針の先ほどの風穴すら開けられなかったのだ。

ゆえに、そんなものは全て忘れてしまわなければならない。
これから紹介するのは、正統の坐禅。ホンモノの瞑想。自我暴露。自我徹見。
三つの心の性質を見極め無意識の壁を突破する方法だ。
今まで学んできた行法はインチキだったと思っておけば間違いないだろう。
それはどんな行法なのか。想像しなくていいよ。それ当たってないと思う。

本当の瞑想とは自我を暴露する過程なのである。
自我暴露でない瞑想は瞑想ではない。

((M・ベイン『キリストのヨーガ』P.44「第二章キリストのヨーガを求めて」)

それでは、センスのない禅者のための心随観講座を始めよう。
今回のミッションは豪華二本立てだ。そして、これが第一弾。

Mission 4 心随観をマスターせよ

長くなるので記事を分割します。

【追伸:2012年1月25日】
ちょっと余裕ができたので記事を書くペースを早めようと思う。
ボクは今年38歳を迎えるんだけど、近頃、悟境の進歩が著しい。
そう遠くないうちに“丹”ができるので、それからは縁覚道に入ると思う。
縁覚道に入ったら沈黙の行に専念しないと悟れないらしいから、
このブログも近いうちに断筆しなければならない。
ここで悟らなかったせいで生まれ変わってまた同じ苦労なんて御免だからね。
たぶん41歳まで沈黙を守ることになると思うから、
もしも、この一連の記事を読んでいる人で要望・質問のある人がいたら、
早めにコメント頂戴。できるかぎり応え、わかる範囲で答えます。

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才能とは何か4~詳説ぷっつん体験~

「なんだ?生意気なやつがいる」

それがボクのユングに対する第一印象である。

ボクは坐禅をはじめた翌年の33歳の夏に“ぷっつん体験”をした。
その頃はさっぱり冴えない公認会計士の受験生をしていたのだけれど、
その空しさに気づいてしまったのでテキストを全部捨てざるをえなかった。

ただし、仕事を辞めてまで何年も費やしてきた大事だったから、
そのまま終わってはケジメの付かないような気がして落ち着かない。

そこで禊(みそぎ)のつもりで、“ぷっつん体験”から得た知恵をまとめた
『できる受験生できない受験生』という記事をボクのホームページに載せ、
こんなふうに締めくくった。

瞑想システムの一つである坐禅では、「ほんとうの自分になるために坐る」とよく言います。
このことは、「さとり」などの宗教的意義を抜きに考えると「他人が評価してくれなかったために無意識に心の奥に隠し込んでしまった自分の一部を見つけにゆくために坐る」と言いかえることができます。

矢印マーク できる受験生できない受験生:「【おわりに】やっぱり坐禅でしょ!?」

この結論は約一年間の坐禅修行から頭をひねって独力で導き出したものなのに、
まったく同じことを言っている人物がいて、そいつがユングだったのである。

「これじゃあ、まるでボクがパクッたみたいじゃないか」と思った。

どうしてユングとボクの見解は時と場所を越えて奇妙に一致したのか?
そこに人間の才能の秘密を解く鍵がある。

というわけで“人間の才能の秘密”の謎解きをしていくつもりなのだけれど、
まずは、ボクが『ユング自伝』を読むに至った経緯を聞いてもらおう。
きっと、その方が面白い。お楽しみはそれからだ。

矢印マーク 馬鹿な男ほど愛おしい
「人生二九歳変動説」だけでも値千金のコラム集。

最初は“ぷっつん体験”についての説明からはじめようか。

いうなれば“ぷっつん体験”は悟りを開くために欠かせない通過儀礼。
なぜなら“ぷっつん体験”をした時から天職に導かれるからである。
そもそも大乗仏教の“菩薩道”というのは天職を通じて行うもので、
選ばれた禅者が悟りを開いた後の42歳から本格的に始めるものだ。

だから“ぷっつん体験”というのは“菩薩道”へ至る道のほんの入口にすぎない。
“ぷっつん体験”直後から始まる“声聞道”の修行を避けて通れないからだ。

とかく大乗仏教の信奉者は“声聞・縁覚道”をないがしろにしているけれど、
“菩薩道”は“声聞道”とそれに続く“縁覚道”を修めてはじめて実践できる。
この道筋を無視した途端に“菩薩きどり”となるから自ら戒める分別を持って欲しい。

つまり、33歳位からの“声聞道”、38歳位からの“縁覚道”を経て、
悟りを開いた禅者だけが、ようやく“菩薩道”を実践する資格を持つのだ。
だから“面壁九年”とは33歳から42歳への九年間のことを言うのである。
その後は約42年間の“菩薩道”を経て遷化(せんげ)してゆく。

だけど、おそらく、四面楚歌。こんなことは一度も聞いたことのない話だろうから、
ボクのオツムを疑ってもらって一向に構わない。でも、これは客観的事実なのだ。

ボクがこんな具合に考えるようになったのはこのコラムを読んでから。

私は十年間、編集者をやってきて、数多くの文化人、名士、タレントさん、学者さんなどなどに、取材という名目で会ってきた。で、その経験を通して、とても不思議に思うことがあったのだ、それを私は「人生二九歳変動説」と呼んでいる。

いろんな人の話を聞くと、かなりの確率で……というか、びっくりするような確率で、二九歳で人生の転機を迎える人が多いのである。二九歳には何かある、とつねづね思ってきた。そういえば、ブッダが出家したのだって二九歳だった。

この二九歳の転機というのは、その人の天職というものと非常に深く関わっている。二九歳で、自分の価値観や、携わっている行為に対して疑問を持ち、そして疑問を解決すべく行動した人はその後、三二歳の時に別の転機と遭遇するのだ。で、この三二歳の時の転機が、自分の天職を決めていく。その後、三五歳、三八歳と順調に自分の人生の意味を見いだし、四二歳前後で迷いが出る。

この四十歳代の迷いというのは、身体の変調という形で表出したり、もしくは女性(あるいは男性)に恋をしてしまう……というような形で現れたり、それまで全く興味のなかったものに狂ったように魅かれたりするのだが、とにかく心と身体が動揺し、その経験によって、本当に自分が望んでいる生き方とはどんなものかを再確認し、それが完了すると五十歳から「奉仕」というものを仕事の中心に据えて生き始めるようなのである。

(田口ランディ『馬鹿な男ほど愛おしい』P.150-151「人生二九歳変動説」)

見事に核心をついた卓見である。

とはいえ、呼ばれる者は多いが選ばれる者は少ないものなので、
29~32歳の変動期を逸した人にとっては認めたくない現実でもあるだろう。
もとより“30代へのパスポート”を手に入れられるかどうかは、あくまでも、
29歳までの自身の生き様にかかっているので、そこに同情の余地はない。

古神道に詳しいという音楽家の宮下富実夫さんにお会いした時に、なんと宮下さんが私と同じことを言いだすのでびっくりした。宮下さんっていうのは、音楽療法の元祖であり、あの安室奈美恵さんも胎教のために宮下さんのCDを聞いていた……というお方だ。

「言葉にも言霊があるように、数にも数霊があるんですよ」 と宮下さんは言う。で、数字は十進法であり、九で転換する。だから九は物事を転換させる力をもっていると言う。確かに、数字は生活に密着した記号であり、そこに人間がなにかしらの象徴的意味を見いだしているとすれば、数霊という存在も理解できなくもない。
そして宮下さんは、かのように断言した。
「二九歳の時には、どんな人にも数霊が開くんですよ」
「はあ?どんな人にも、ですか?」
「そうです。数霊が開き、本質的な人生への扉を叩くチャンスが、誰にでも平等に開かれます」
「ふーむ、確かに私も社会的な成功を収めた人に取材すると、なぜか二九歳で転機を迎えた人が多いんですよねえ」
「二九歳の時に、自分の人生について考え、自分を信じて勇気をもって行動すると、天職への道を歩み始めることができるんです」
「ふーん」
もちろん私は半信半疑である。
「じゃあですねえ、二九歳の時に扉を叩き損なった人はどうなるんでしょうか?」
すると宮下さんは、あっさりと言うのである。
「もうダメですね」
「はあっ?」
「すべての人に与えられた平等なチャンスを見送ってしまったわけだから、迷いの多い人生になりますねえ」
「そりゃあ、あんまりじゃないでしょうか?」
「いや、でも、来世ってのもありますから、あせらなくても大丈夫ですよ」
「そうは言っても……」
「わははははは」

(田口ランディ『馬鹿な男ほど愛おしい』P.152-153「人生二九歳変動説」)

こうした人間の数奇な運命というのは慧眼の開けてきた人には自明のことで、
そういう慧眼の士は“ぷっつん体験”を経てきているものなのである。
この“ぷっつん体験”をすると芸術や人品を見抜く眼力も目覚めてくるため、
芸術活動や人を動かす地位にあって本当に成功している人は独創的になる。
というのも偽物がわかるから本物を独力で創造する使命を感じるからで、
“ぷっつん体験”の先には凡人の理解の及ばぬ世界が広がってくるのだ。

だから、この体験をした人は目覚めはじめた慧眼の真偽を確かめるかのように、
暗い手探り状態の中で自分の天職を模索することになる。ボクにとっては、
『できる受験生できない受験生』を書いたことが薄明をみる体験となった。

小学校の読書感想文に始まってラブレターや大学の卒論など、
幾多の文章を書いてきたボクは34歳にして初めて借り物じゃない思想を書けた。
書き終わったとき「独創」の可能性を生まれて初めて実感できたのである。

閃きとは決して思いつきではありません。思いつきの延長線上にあることかもしれませんが、思いつきではないのです。どこがどう違うのかうまく説明できなくて残念ですが、ともかく違うのです。格の違いとでも言えばいいでしょうか。
(丸山健二『まだ見ぬ書き手へ』P.63「Ⅱ書きながら書き方を身につける」)

丸山健二の言うようにそれまでのものとは「格」が全然違った。

ただその文体はあまりに稚拙。自分でも情けなくなるほどだった。
“ぷっつん体験”で備わるのはあくまでも「慧眼」と「閃き(インスピレーション)」。
「技」は努(つと)めて磨かなければならないようである。

矢印マーク まだ見ぬ書き手へ
救済の文学を志す天才作家は必読である。
もちろん、そんな人がいればの話ですけど…。

それからは世の中で難解と言われている哲学書も実によくわかるようになった。
哲学者の悟境だって見抜けるようになる。おそらく眼光紙背に徹しているからだ。
何というか文章の行間にある思想を読み取っているようなのである。ボクの読書は、
「本から学ぶ態度」から「書き手と悟境比べをする態度」へシフトした感じなんだ。

だから経典を読むときだって大胆にも釈迦の話を対等に聞く気持ちで臨む。
いつだって返り討ちにあって、平身低頭、感服するんだけど、
「いつかこいつと肩を並べて歩いてみせる」と思うボクがいる。

これは岡本太郎の中学生の頃の回想。

中学に入るか入らないかの頃、ショーペンハウエルにとりつかれ、学校の授業中でも、前の席の子の背中に隠れて読みふけったのを覚えている。はじめての哲学書だったけれど、とてもよく解ったし、面白くて、ちっとも難しいとは思わなかった。天才論とか、因果論など、うむ、その通りその通りといちいちうなずきながら読んだ。天才は憂うつと昂揚が周期的に激しく襲ってくるとか、大てい背が低く、猪首(いくび)だなんてところまで自分にそっくりで、うむ、やっぱりぼくは天才なんだな、とひそかにうなずいたりした。
(岡本太郎『自分の中に毒を持て』P.44「1意外な発想を持たないとあなたの価値は出ない」)

ショーペンハウエルなんて西洋哲学を専攻した大学でも本質は理解できなかったし、
中学生のボクが前の席の子の背中に隠れて読みふけった本はあるにはあるけれど、
それはエッチな描写を楽しみにして頁をめくった村上春樹の『ノルウェイの森』。

岡本太郎は中学生の時分にして今のボクと同じ読み方をしていたようだから、
「どうやら“生まれつきのぷっつん体質”みたいなものが存在するらしい」
てなことを痛感せざるをえない。どおりでどんなに努力しても敵わなかったはずだ。

それはそれとして「天才は大てい背が低い」という指摘は嬉しい。
ボクの身長はフランスの英雄・ナポレオンと同じ160cm。
養神館合気道の塩田剛三は155cm。開祖の植芝盛平に至っては153cm。
そう考えればボクも天才達の仲間入りをする運命にあった気もしてこなくはない。
「うむ、やっぱりボクは天才なんだな」

矢印マーク 自分の中に毒を持て
岡本太郎はわかっていたんだとおもう。
自立した人生を生きることは、それがそのまま禅なんだ。

その“ぷっつん体験”とは従来の価値観を“捨てる”体験なのだけれど、
微妙なものなので実際に体験してみないと本当のところはわからないはずだ。

それでも、その人生で才能を開花させた大器の自伝には、
“ぷっつん体験”に触れている部分が少なからずあるので、
やはり、この体験が転機になったことを感じ取っていたのだと思う。

まずはボクの“ぷっつん体験”をここに書きつけておこう。
この体験の雰囲気だけでも伝わればその甲斐もあろうというものだ。

33歳の“ぷっつん体験”以前のボクは公認会計士の看板を印籠にして
「うまく世渡りしてやろう」などと姑息な人生設計を考えていた。
ところが、どんなに努力してもなかなか合格できなかったものだから、
嫉妬心やら劣等感やらが腹の底にどす黒く渦巻いていたのだと思う。

そんな29歳のときに身体に変調をきたした。
20歳頃に53kg前後で推移していた体重は65kgまで増加。
ダイエットのつもりで再開したテニスでアキレス腱を切った。
ヒョウ疽(そ)にかかり、歯が折れた。原因不明の湿疹にも悩んだ。
そんな29歳のボクはまさしく“病気のデパート”と呼ぶにふさわしい状態だった。

ただしボクのオツムの調子は相当狂っていたから、坐禅なんて思いもよらず、
身体を動かして痩せることしか対処法として思い浮かばない。
そのうちランニングや自転車や筋トレの成果が徐々に出はじめたのは31歳頃。

筋肉がついて体重も57kgまで落ちていた。
ところが160cmの三十路男には57kgに壁がある。
その壁にぶつかってからというもの進歩がパタリと止まっていたのだけれど、
32歳になるかならないかの春に古本屋で『5つのチベット体操』の本を手にする。

チベット体操をはじめて3ヶ月過ぎた頃。ついに57kgの壁を越えられた。
「身体を変えられたのだから心も変えられるはずだ」
という確信が芽生えはじめ、それが半年後にはどういうわけかこうなった。
「心を変えれば運勢は絶対に変わる」

実はチベット体操には第6の体操というのがあって、
これは今考えれば単に身体前面の任脈を刺激する操体法なのだけれど、
そこには「性エネルギーを上昇させスーパーマンになれる体操」
てなことを書いてあった。「ひょっとして坐禅の目的ってコレのことか?」

これがボクの坐禅入門の動機である。
こうしてお粗末ながら、32歳の夏、ボクは坐禅を始めることになった。

矢印マーク 5つのチベット体操-若さの泉・決定版
ボクの人生を180度変えてしまったチベット体操。
やらなきゃ損だよ。

それから約一年後の33歳の初夏。
懺悔をしていたら心臓にべったりくっついている何かが引っ剥(ぱ)がされて、
小学生の頃から患っていた狭心症の症状がピタリとなくなる。
その数日後にはボクが“興菩提心”と呼んでいる軽い神秘体験をした。
その時、初めて坐禅の威力を思い知ったのである。

運命の電話の鳴ったのはそれから数週間後のことだった。
「システムエンジニアを探している人がいる。面接を受けてみないか?」
と小学校以来の友人から連絡があった。

公認会計士の受験のために辞めていたシステム屋の仕事だったけれど、
勉強するのにうんざりしていた頃だったので面接を受けてみることにした。
ところが2週間位したら必ず合否の連絡をすると言われたのに、通知はこない。

それでも、まったく腹が立たないばかりか、むしろ、嬉しかった。
面接のとき、採用されたら一緒に仕事をすることになる上司と話をしたけれど、
以前の職場にいた上司と同じ匂いのする人物で、話をしているうちに、
「ボクは一体何をしているんだろう?」
「もしも、こいつに採用されるくらいならボクの人生もそこまでだ」
なんて気になってしまったのである。

だから、面接後の2週間のうちにあれこれと葛藤したあげく、
「採用されなかったから、これからはやりたいことをやりたいようにやろう」
と覚悟が決まった瞬間、ボクは会計士のテキストを全部捨ててしまっていた。

あれは、ちょうどその日の夜である。ボクはこんな夢をみる。

以前働いていた情報システム部とよく似たオフィス。
そこへ突如として押し寄せた洪水がオフィスにある備品のすべてを流し去る。
びしょ濡れになって立ち往生するボク。
そこへ一人の男が現れる。
男は隣りのビルへボクを案内した。
その何階かにあるだだっ広い事務所の扉を開ける男。
事務所の中には窓から射し込む光と柱しかない。
「ここが君の新しい仕事場だ」
男は続けた。
「ワタシは君のことは別段好きなわけじゃないんだが、努力だけは認めよう。好きに使ってくれたまえ」
「えっ?どういうことですか」
「いま言ったとおりだよ、君」
男は言葉を継いだ。
「まったく君のそういう鈍いところが気に入らない」
「どうもすみません」
しかし、まったく失礼な男だ、と思ったところで目が覚めた。

(布施仁悟『道東青春18きっぷの旅』-「真夏の白昼夢」より)

何を意味しているのかわからなくとも、とにかく強烈に印象に残る夢だった。

第一の結節の解ける兆候が始まったのはそれからで、
その三ヶ月後くらいにボクの“第一の結節”は解かれることになる。

以上がボクの“ぷっつん体験”の全貌なのだけれど、
その内容や状況は人によって少し違うはずだから本質を読み取って欲しい。

たとえば、これは岡本太郎の“ぷっつん体験”。

しかし、社会の分業された狭いシステムの中に自分をとじ込め、安全に、間違いない生き方をすることが本当であるのかどうか、若いぼくの心につきつけられた強烈な疑問だった。
残酷な思いで、迷った。ぼくはごまかすことができないタチだから。そして…いまでもはっきりと思い出す。ある夕方、ぼくはキャフェのテラスにいた。一人で座って絶望的な気持ちで街路を見つめていた。うすい夕陽が斜めにさし込んでいた。
「安全な道をとるか、危険な道をとるか、だ」
あれか、これか。
どうしてその時そんなことを考えたのか、いまはもう覚えていない。ただ、この時にこそ己に決断を下すのだ。戦慄が身体の中を通り抜ける。この瞬間に、自分自身になるのだ、なるべきだ、ぐっと総身に力を入れた。
「危険な道をとる」
いのちを投げ出す気持ちで、自らに誓った。死に対面する以外の生はないのだ。その他の空しい条件は切り捨てよう。そして、運命を爆発させるのだ。
戦後の日本でぼくの果たした役割、ポジションはその決意の実践だった。

(岡本太郎『自分の中に毒を持て』-「1自分の大間違い」P.18-19)

ボクと岡本太郎の“ぷっつん体験”に共通しているものを分析してみると、
「余計なものにしがみついていたがゆえに間違った道を歩んでいる」
そこに気づいて“手放し”をしたということにあると思う。そして、
この“ぷっつん体験の手放し”が“悟りの入口”であることは論をまたない。

また29歳からの変動期を逃す人はお体裁に寄りかかって生き様を決める人。
周囲の評価を気にして生きているから人間の最も大切なモノを捻じ曲げてしまう。
たとえば、自尊心、矜持(きょうじ)、自由、尊厳といったようなものだ。

“ぷっつん体験の手放し”の後に感じる解放感は、まさしくこれらによるもの。
“自尊心・矜持・自由・尊厳”を備えていればこそ他人に寛大にもなれるのだ。
これらを取り戻すより先にどうして“謙虚さ”なんてものがありえよう。
天上天下 唯我独尊!自尊心のないような者は禅者失格なのである。

何年坐っても進歩の見られない理由も、ここに明らかだろう。
いつまでも余計なものにしがみついてママのお乳を吸い続けているからだ。
そんな禅者などは孤高の作家・丸山健二風に“オカマ”と呼ぶにふさわしい。

たしかに54歳から才能を発揮する遅咲きの人もいるようだけれど、
その場合、29歳から始まるプロセスは42歳からにずれ込まざるをえない。
そうなると心底染みついた“オカマ根性”のせいかその業績は中途半端になる。

一口に大器といっても、その“ぷっつんレベル”は様々なのだ。
体験以降も成長を続け、より“ぷっつん”できた人の業績ほど偉大となる。
それゆえ大器の才能はなるべく早めに開花させるに越したことはない。
このことに気づかせてくれたのは、35歳からのボクの体験とユングだった。

矢印マーク 図説 法華経大全―「妙法蓮華経全二十八品」現代語訳総解説
妙法蓮華経とは、最後まで読みきっても、
「どうせ読んだってわからん」としか書いてない経典。
それでも諸経の中の王なのである。
とても読みやすい現代語訳総解説。
読んでもわからん。だけど読む。それが法華経。

35歳の誕生日の朝。突然、ボクはひらめいた。
「現代の法華経を創造してみたい」

法華経というのは実に意味深い寓意(ぐうい)に満ちた経典で、
悟境の深まるほどにその真意を理解できるように編まれている。

世の中の小説や映画は悟境の深まりにつれて空しく感じられてくるけれど、
もしも寓意を含んだエンターテイメント性あふれる作品があれば、
悟境のすすんだ人もそうじゃない大衆も一緒に楽しめるはずなのだ。

面白くてためになる。そんな作品は少ないけれど、たしかにある。
映画『マトリックス』や『スター・ウォーズ』は興行的にも大成功しているし、
世界中で時の風雪に耐えてきたシェイクスピアの戯曲はその最たるものだ。
「もしもそんな作品を創造できたら」と考えただけで武者ぶるいがしてきた。

即日、図書館へ出かけて文章読本や小説作法などの本を借りて読み漁り、
半年かけて完成させた処女作品は読み返す気も起きないくらいの出来だった。
下手に慧眼なんてものを身につけたから自惚れることすらできない有様。

それでもなんとか納得できる作品のできたのは37歳で書いた作品。
『道東青春18きっぷの旅』さきほど紹介した夢のくだりを含んだ紀行小説。
だけど、“ぷっつん体験”を通過する人が体験する家族関係の葛藤などを
諧謔(かいぎゃく)を交えつつ「後進の禅者のために」書いてしまっていた。
つまりボクの狙っていたエンターテイメント性なんてものはまるでない。

やはり、どうあがいても“私小説”みたいなものになってしまうのである。
“ぷっつん体験”以降、たしかに“慧眼”や“閃き”は備わったけれど、
せっかくの“閃き”を理性でこざかしく捻じ曲げてしまう癖が抜けないのだ。

何かが足りない…。
そう気づき始めたときに精神科医アンリ・エレンベルガーの学説を知る。
それはフロイトやのユングの生涯を研究した結果として導き出しもので、
天才の創造的な業績は精神的な病を克服した後になされるという発見だった。
それを『創造の病(creative illness)』と呼ぶらしい。

こうしてユングの生涯を知るために彼の自伝を読んだとき、
29歳からボクの人生に起こったこと全てがつながった思いがした。
しかも、それだけでない。
これからボクに起こることと問題の解決策をも暗示していたのである。

この続きは次回ということで。

【追伸:2012年1月25日】
ちょっと余裕ができたので記事を書くペースを早めようと思う。
ボクは今年38歳を迎えるんだけど、近頃、悟境の進歩が著しい。
そう遠くないうちに“丹”ができるので、それからは縁覚道に入ると思う。
縁覚道に入ったら沈黙の行に専念しないと悟れないらしいから、
このブログも近いうちに断筆しなければならない。
ここで悟らなかったせいで生まれ変わってまた同じ苦労なんて御免だからね。
たぶん41歳まで沈黙を守ることになると思うから、
もしも、この一連の記事を読んでいる人で要望・質問のある人がいたら、
早めにコメント頂戴。できるかぎり応え、わかる範囲で答えます。

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結跏趺坐へのストレッチ2~白隠禅師・軟酥の真実~

望景内のきほん:白隠禅師・軟酥の法について

さてさて、望景内はいわゆる普通のストレッチなのだけれど、実質的には、
白隠禅師が『遠羅天釜(おらてがま)』で紹介した軟酥(なんそ)の法である。

ついでに言うとヨーガのアーサナも気功の導引法も、つまりは軟酥。
それゆえ、まずは軟酥の法について解説しておこうとおもう。

とりあえず白隠禅師の『遠羅天釜』を読んでみることにしよう。

矢印マーク 『白隠禅師―健康法と逸話』
坐禅と気の関係を明かした本。
内観の秘法と軟酥の法は坐禅の基本。
白隠禅師の『夜船閑話』と『遠羅天釜』で
ちょっとはマシな坐禅をしよう。

軟酥というのは鴨(かも)の卵くらいの大きさの軟らかい薬のことで、
ちょいとばかり面倒な処方によりつくられる秘効のある丸薬である。
なんでも、そいつを頭上にのせるだけであらゆる病気を癒せるそうだ。

さいわい初心のものは軟酥の丸薬の材料や目方を思いはかる必要はない。
軟酥の法を修するにあたって坐りながら呪文を三回唱えればよいそうである。

おおよそ生を保(たも)つの要(よう)、気を養ふにしかず。
気尽くるときは身(み)死す。
民(たみ)衰(おとろ)ふる時は国亡(ほろ)ぶるが如し。

(白隠禅師『遠羅天釜』)

それから一心にゆったりとつぎのような観想をおこなうのである。

自然に空中へ出現した軟酥が頭上にのせられ体温でとけはじめる。
すると妙なる香味を含んだトロリとした液体が体表を流れ出し、
いつのまにやら五臓六腑までもタラタラとうるおいひたしてゆく。
両脚をチョロチョロと流れくだって足裏でようやく止まる頃。
秘薬はそこに渦となってたまってゆく。

(白隠禅師『遠羅天釜』意訳:布施仁悟)

ただしこの法を生かすも殺すも行ずる者の真剣味にかかっているそうだ。

効験の遅速は行人の勤むると怠るとに在るらくのみ。
怠らざれば長寿を得。

(白隠禅師『遠羅天釜』)

以上が白隠禅師の『軟酥の法』の概要なのだけれど、
たぶんほとんどの人は真剣に実践しても効果を実感できないはずである。

ただし逆にそれだからこそ、その意図しているものは何かということに
関心の鉾先(ほこさき)を転ずるべきであろう。
なぜなら、ものごとの本質をつかもうとするときボクらは一皮剥けるからだ。

そこで軟酥の法に込められた白隠禅師の意図を探ってゆくのだけれど、
その前にストレッチの定義について確認しておきたい。

矢印マーク 決定版 真向法―3分間4つの体操で生涯健康
真向法はストレッチの王道です。
4つまるごと望景内の構成要素。
筋トレの要素をそぎ落とし、
衝脈をダイレクトに刺激する

ストレッチとは一般的には柔軟体操なわけである。

もしも凡人として一生を終えたいならばその程度の認識で、もちろん結構。
望景内を今から実践するなら間違いなく健康になれるし、さらに、
十六歳以前から始めるとしたら秀才程度の才能までも開花してしまうだろう。

一方、ボクたち禅者の目指す境地はそれを遙に越えること九千三百万マイル。
秀才と禅者の間には惑星・地球と恒星・太陽ほどの隔たりがある。

これは望景内の元ネタの一つ『真向法』の本にあった記述。

筋肉が薄弱で体質的に“蒲柳(ほりゅう)の質”といわれる人がいます。このような人は、真向法も不得手と思われがちですが、初めから難なくできる人が多いものです。低血圧で疲れやすいという人もそうです。このような方は、実際、柔らかい筋肉を持っているのですが、筋肉の質が弱いのです。失礼ですが、ゴムでいえば伸びきったゴムです。
(『決定版 真向法』P.60「第2章 真向法体操とは」)

一般に柔軟体操と言われてはいても、本来目指すべきは“柔”で表すしなやかさ。
芯の通っていない軟弱なだけの“軟”であってはいけないのである。

以下は同じく真向法の本から。

しかし、このような体質の方も、真向法体操を続けていれば、強い筋肉を獲得できます。つまり、続けているうちに筋肉が硬くなってきます。そして、そのうえで柔らかくなってくるのです。つまり、筋肉が、薄弱‐硬直‐柔軟と三段階に改善されていくわけです。
(『決定版 真向法』P.60「第2章 真向法体操とは」)

つまり、ストレッチの各ポーズは単に身体が軟らかいだけではいけない。
その形が決まっているかではなく“やわらかさの質”を問われているからだ。

だから禅者諸君には柔らかくしなやかな肉体を手に入れてもらいたいのだけれど、
オツムの調子次第では手ごたえのない軟らかな身体で終わってしまうこともある。

この事実はヨーガのアーサナの修練にも当てはまるようだ。

わたしの31年の指導経験からすると、身体の柔軟な人よりは、むしろ固い人の方がハタ・ヨーガに向いているといえる。それは、身体が柔軟な人は、いろいろなアーサナが簡単にできてしまうので、「ハタ・ヨーガなんて簡単なものだ」と考えてしまい、しかも少し続けたくらいでは表面的な変化はないのでやめる場合が多い。
それに反して身体の固い人は、「ハタ・ヨーガはむずかしい」と考え、しばらく続けるうちに、驚くほど身体が柔軟になっていくのを体験できるので、おもしろくなり更に続けることになり、気が付いたら何十年も続いていた、ということになる。

(成瀬雅春『ハタ・ヨーガ完全版』P.29「入門編第2章 準備運動」)

実は、この“柔”と“軟”の違いは体軸の性質によるもので、これは以前、
“不動の体軸”と“普通の体軸”として区別したものに対応している。
矢印マーク 以前の記事:不動の体軸とは何か7~禅者の体軸~

矢印マーク ハタ・ヨーガ完全版
P.36-37の入門編「腕の運動Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ」
P.78のひねり系統7「ジャタラパリヴァルタナ」
P.103の前屈系統20「ハヌマーン」
これらは日々のストレッチに是非とも取り入れたい。
簡潔に書かれた解説はストレッチのコツの宝庫だ。
やっぱヨーガでしょ。

このうち“軟”性の肉体は主に生来の素質によるものだとボクは思う。

それは体軸を持つけれど芯の形成を欠いた“普通の体軸”でしかない状態。
ただし凡人には“普通の体軸”すらないので、これは“秀才の体軸”とも言える。
加えて成長ホルモンの分泌量の多い16歳以前からスポーツや芸術などに
親しんだ場合、ある程度の年齢までなら天性の才能を発揮できるようだ。

ボクの観察ではその年齢は38歳前後。
長嶋茂雄はじめスター級の運動選手も38歳前後でパフォーマンスを落として、
ついには引退してゆくものである。
近頃では38歳を迎えた途端に調子を落とした米マリナーズ・イチロー選手や
史上最多の1047勝を記録した大関・魁皇の引退が記憶にあたらしい。

また、芥川龍之介しかり、太宰治しかり、ゴッホしかり。
感性の鋭い秀才に至ってはこの辺りで自殺して才能の枯渇からの逃亡を謀る。
権威に臆することなく作品を観賞すれば一目瞭然であるように、
彼らは一般に言われているような天才なんかでは決してなかったと思う。
そのくせ、どういうわけか“夭折の天才”の称号を与えられてはいるけれど、
ラファエロやモーツァルトやメンデルスゾーンらの作品を前にしたら、
誰が観てもその才能のレベルを異にしていることは圧倒的に明白だろう。

こうした“軟”性の素質を維持しただけで不動の体軸を育めなかった秀才は、
もちろん凡人に比べれば優れたパフォーマンスをみせるものの、
38歳以降はゆっくりと着実に凡人へと転落してゆく人生を歩むようにみえる。

だから人間は生後の修行によって“柔”性の肉体を手に入れなければならない。
それは“生涯衰えない”武道における“呼吸力”に通じるものであるからだ。

呼吸力の特徴は、いくつになっても使えるところにあります。筋力はいくら鍛えても自然に衰えてきますが、呼吸力はそんなことはありません。正しい修練を積み重ねているかぎり、年齢には関係なく、いくらでも発揮することができます。
(塩田剛三『合気道修行―対すれば相和す』P.100「第2章 呼吸力」)
力に依存する空手は短期間で鍛えられますが、短期間しか維持できないのも現実です。
(宇城憲治『武術空手の極意・型』-P.208「【Ⅳ】呼吸力」)
呼吸を根源とした稽古は年を重ねるほど強化されていきます。ここに武術としての大きな特徴があります。
(宇城憲治『武術空手の極意・型』-P.209「【Ⅳ】呼吸力」)

これは老子が『大器晩成』とかつて看破してみせた根拠でもあると思う。
すなわち、どんな秀才も38まで。そこから先は生後の修行が大器を育む。

そして、“柔”性の肉体を手に入れ大器になる行法こそが軟酥の法なのだ。
ひいては望景内は不動の体軸を獲得し天才になるための行法なのである。

しかし、ここまで自信たっぷりに書いてみるとちょっと不安になってくる。
ボクは“大風呂敷を広げる”というありがちな墓穴を掘っているのかもしれない。
とはいえ、聖書にある聖句に比べたら、まだまだ他愛ないのではなかろうか。

心に疑うことなく、言ったとおりになるとただ信じながら、
「動いて海へゆけ!」と山に向かって命じてみよ。
さすれば、畢竟、誰でもそのとおりになるだろう。
(マルコ11-23)

大風呂敷というより、ほとんどギャグ漫画の世界である。

矢印マーク 合気道修行―対すれば相和す
不世出の名人と呼ばれた合気道の達人・塩田剛三。
その技の奥義をサラりと書き記してある貴重な本である。
合気道修行は型稽古だけで試合はない。
型稽古だけでナゼ強くなれるのか?
その秘密は氣にある。
読む人が読めば塩田剛三が氣の達人であったことがわかるだろう。
これはまこと奥義書と呼ぶにふさわしい一冊。

さて、くだんの軟酥は記事内にチラホラ登場してきた“結節”に関連を持つ。
とりわけボクが第二の結節と呼んでいるものと密接に係わるものだ。
だから軟酥の法を理解するためには“結節”について知らなければならない。
ちょうどよい機会だから脊髄にあるという三つの結節について説明しておこう。

この結節はボクの読んだ本の中ではヨーガの文献の中にしか登場しない。
しかも第一、第二、第三の結節としたのはボク独自の工夫で文献では順不同。
さらにボクの確認できたのは二つ目まで。今のところ三つ目については未確認だ。

だから、お粗末にも不完全な情報しか提供できなくて残念なのだけれど、
軟酥の法の理解には二つ目までで十分。ボクのわかる範囲で解説を試みたい。

ヨーガの文献では三つの結節にちゃんと名前を付けてあるだけでなく、
ご丁寧にも位置まで明示してあった。

第一の結節…ブラフマグランティ…ムーラダーラチャクラ(尾てい骨)
第二の結節…ルドラグランティ…アジナチャクラ(眉間)
第三の結節…ヴィシュヌグランティ…アナハタチャクラ(胸)

グランティは、節、結び目を意味し、このグランティが解かれると、クンダリニーのエネルギーであるシャクティが目覚め、活動を始めるといわれています。
(本山博『密教ヨーガ』-P.186「Ⅱサッチャナンダの説くチャクラ、ナディ」)

ボクが“気を感じる”と言っているのは、ここでいう「クンダリニーのシャクティ」のこと。
尾てい骨にある第一の結節が解けるとこのシャクティを感じられるというわけ。

矢印マーク 武術空手の極意・型
武道の型稽古の重要性を知るならこの本に限る。
宇城師範の強さの秘密を知ることは
武道の奥義へ至る道を知ることなのである。

また身体に大げさな事件が起こるから結節の解けたことを知るのは簡単だ。
結び目は“ほどく”と言うより“ぶっちぎる”という感じで解けるものだから、
第一の結節の解けるときは尾てい骨の部分に激痛が走るし、
第二の結節の解けるときは眉間の奥、脊髄の先端が尋常じゃなく痛い。
強烈なエネルギーが脊髄の中を尾てい骨から頭頂まで突き抜ける感じなんだ。

つまりボクはこのエネルギーの突き上げを二回喰らっていることになる。
結節は三つあるということなので、いずれもう一回体験しなきゃいけない。
ボクだって痛いのは嫌いだから楽しみでもあり恐怖でもあり複雑な気分になる。

以前述べたように第二の結節を解いた直後は髄液漏れのような症状になるから、
三つの結節の存在は脊髄の三層構造と物理的に関連していると思う。
矢印マーク 以前の記事:偏差とは何か~禅の常識、医学の非常識~

過去二回の体験ではどちらもエネルギーが脊髄の中を一気に突き抜けていった。
だから尾てい骨と眉間の奥の結節は同じ脊柱上にあるにもかかわらず、
その解ける時期を異にする理由をイマイチ納得できなかったのだけれど、
脊髄は硬膜・クモ膜・軟膜で覆われる三層構造になっているらしいから、
結節を解く度に一層ずつ通り抜けると考えれば合理的な説明がつくのである。

とはいえ脊髄については現代医学でもよくわかっていないため、病院はもとより、
頼みの寺院ですら対処してもらえないわけで、現代を生きる禅者はつらいよね。

どっちにしろ優しくソフトにやってもらいたいものだけれど、
痛みを伴うのが天のやり方らしいから文句を言ったら罰が当たりそうだ。
代償として結節の解ける度に深い意識層の能力が目覚めるのかもしれない。

そして軟酥の法は第二の結節を解いた後に生じる能力に関連したものだ。

アジナチャクラは、イダ、ピンガラ、スシュムナの三つのナディの合流点ですが、この三つのナディはアジナより上へは、わかれた形では上昇せず、合一した一つのナディとなり、それがサハスララにつらなると、サッチャナンダは説いています。
(本山博『密教ヨーガ』-P.160「Ⅱサッチャナンダの説くチャクラ、ナディ」)
アジナは、脊髄の終わったところに対応して位置し、三つのナディが合流して、ちょうど糸の結び目のようになっています。この結び目は、ルドラ・グランティ (Rudra granthi)またはシヴァの結び目と呼ばれています。肉体の上では、アジナは松果腺に対応するといわれます。
(本山博『密教ヨーガ』-P.160「Ⅱサッチャナンダの説くチャクラ、ナディ」)

この『密教ヨーガ』の記述により第二の結節を解いた後に生じる能力を説明できる。

文中の「サハスララ」というのは頭の中心に形成される霊的な感覚器官。
ボクの体感では漏斗状の感覚器官として認識しているものだ。

第二の結節の解ける頃にはサハスララ形成の兆しを感じられるのだけれど、
そこから流入する気の流れが結節周辺で堰き止められるから頭痛に悩まされる。
ところが第二の結節を解くと頭頂から足に向かって全身の経絡を流れ始めるのだ。
なぜとならばイダ、ピンガラ、スシュムナの絡みつきをほどいたからである。

つまり、第二の結節を解いてはじめて全身の経絡に気を流せるようになるわけで、
そう、軟酥の法の“軟酥”とは頭頂のサハスララから流れ入る気のことなんだな。

この第二の結節解放の当初は筋肉の硬直を強く感じることになる。
経絡(気道)は不随意筋の硬直に阻まれて固く閉じられたようになっているからだ。
ところが気道に気を流せるようになると不随意筋の硬直もゆるんでくるため、
次第に肉体は変性し“柔”性になってゆくのである。“不動の体軸”の完成もこの後。
すなわち第二の結節解放の先に待っているのが“真正の結跏趺坐”というわけだ。

このことから「筋肉が薄弱-硬直-柔軟と三段階に改善される」としてある
『真向法』の記述の意味も明らかとなるだろう。多少の修正を許してもらえるなら、
「軟弱→硬直→剛柔」としたほうがより適切だと思う。

ちなみに気が上から下に向かって流れる理由については、こんな解説がある。

督脈は、ちょうど脊柱の中央を走り、会陰(ムーラダーラにあたる)から頭頂に至り、さらに口唇に至る経絡です。この督脈では、エネルギー(気)は流れないで、貯えられています。気のエネルギーの湖といってもよいでしょう。
(本山博『密教ヨーガ』-P.141「Ⅰウパニシャットにみられるチャクラ、ナディ」)
もし、ある臓器や組織に、異常や病気が生じて、多量の気のエネルギーが必要とされるときには、督脈に貯えられたエネルギーが、その経絡に放出されます。そのときのエネルギーは、上から下に向かって走るのがふつうですが、スシュムナ・ナディ内のエネルギーも、ふつうは上から下に向かって流れるのです。この点でも、スシュムナと督脈の間に一致がみられます。
(本山博『密教ヨーガ』-P.141「Ⅰウパニシャットにみられるチャクラ、ナディ」)

たしかに、ここ数年のボクは風邪の初期症状が出ても一晩寝ればすっかり治る。
そんな体力の弱っているときは不随意筋の硬直している肩のコリがヒドイけれど、
おそらく督脈に貯えられている気が経絡に放出されているからではないだろうか。

お酒を飲んだり、おセックスに興じたときなんかにも肩のコリはひどくなるし、
夜ふかしをしたりして体力の落ちているときに限って夢精してしまうものだから、
不飲酒戒や不邪淫戒などの各種戒律は、このあたりに根拠がありそうである。

今までの怠惰な生活を振り返って、貴重な気を無駄に使ってきたことを思えば、
後悔は先に立たず。それより先にアソコは起つというわけだ。(…?)

おおよそ生を保つの要、気を養ふにしかず。
気尽くるときは身死す。


白隠禅師の言うとおり。飲みすぎ、食べすぎ、夜更かしはやっぱりダメみたい。
ラファエロみたいに過度のセックスで死んだらせっかくの才能も台無しだものね。

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イラスト・地図などの資料も豊富で、
旧約・新約、あまつさえ詩篇もついたお徳な一冊。
聖書は坐禅修行にも必ず役立つ。
かりそめにも軽んじてはならない。

さあ、ここからしばらくは“結節”について第一の結節から詳しく解説していこう。
“真正の結跏趺坐”へ禅者を誘うのは第二の結節解放以降の肉体変性だからだ。
結局、望景内の要領は第二の結節を解いた禅者しか伺い知ることはできない。

しかも、その頃には凡人がその潜在的才能を眠らせている原因も明らかとなる。
どうあがいても呆れるほどの自分の凡人ぶりに気づいてしまうから、
「こんな身体で今までよく生きてきたもんだ」と関心すると同時に、
「早いとこ修行を完成させてしまおう」と固く決心するに違いない。
さしあたっては、その理由を明示しておくことで凡人諸氏を挑発したいと思うのだ。

どのみち禅者諸君は遅かれ早かれ体験することになるはずなので、
結節の解かれる兆候および真相について知っておくことは損にはなるまい。
結節について正面(まとも)に解説してある本なんかどこにもなかったから、
第一の結節を解いたときは何がなんだか分からなくて随分と慌てたものである。

矢印マーク 密教ヨーガ―タントラヨーガの本質と秘法
本山博先生の著作は大いに参考になる。
これはヨーガのテクニック的なことについて、
まとまった記述のある貴重な本。
参考程度に読むなら、むしろ有益だとおもう。
矢印マーク チャクラの覚醒と解脱
『密教ヨーガ』の解説本。
お値段ちょっと高めですけど…
セットでどうぞ。

といよいよ本題に入るところで体力の限界。
続きはまた次回とさせてくれ。

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ちょっとはマシな坐禅作法5~真実の呼吸法~

五.真実の呼吸法について

ちょっとはマシな坐禅作法における真実の呼吸法は言うなれば伝家の宝刀。
ただし扱い方を間違えると己自身をも傷つける“もろ刃の剣”にも似ている。

だから何度も繰り返すようだけれど再びボクは警告しておきたい。
自分の愚かさを直視できない未熟な禅者は絶対に手を出してはならぬ。

これから紹介する呼吸法は身体に眠っている氣のエネルギーを目覚ませる行法。
この“氣”は仙道では「先天の気」、ヨーガでは「クンダリニー」と呼ばれるもので、
こいつを目覚ませて第一の結節を解くと“気”を感じる能力を得られる。

もちろん当初は身体内部を巡る気の流れを感じとれるのみだけれど、
気の制御には心の制御を不可欠とするから未熟な禅者には危険な行法となる。

そればかりか、ひとたび目覚ませたら後戻りはゆるされない。
安全に先へ進む唯一の条件は禅の本質・心随観を修することにある。

その心随観とは自分の愚かさを直視するための心の修練法であり、
未完とはいえ『Impossible Trial』のシリーズ記事で入門者向けの解説を試みている。
自信のない禅者は『Impossible Trial』のミッションを完遂してから挑戦して欲しい。

未熟な禅者には秘められてきた禅の密教的世界への鍵は実に呼吸法にある。
だいたい何の進歩も実感できないまま坐り続けるなんてつまらないとボクは思う。
禅者なら禅の教えの真実を確かめながら修行したいと望むのではないだろうか。
その望みは禅の密教的世界への扉をくぐったときにはじめて叶えられるものだ。

そうであればこそ十分な注意喚起を伴った公開なら率先してするべきだろう。
そもそもこの呼吸法自体は市販されている本に紹介されていたものでもある。

では今まさに己の愚かさと対峙している禅者諸君だけに告ぐ。
ようこそ禅の密教的世界へ。その扉をくぐって来るがいい!

というわけで真実の呼吸法について解説していこう。
ご存知のとおり。一般的な坐禅作法において呼吸にかかわる行法は二つある。
『数息観・随息観』と『腹式・胸式呼吸法』である。

これらの行法を疑いはじめたボクの問いは、その一切を否定するものだった。

これらの効果のイマイチはっきりしない行法は一体どういうつもりなんだ?

禅の本質は心随観にあると気づいてから、自我を観察する習慣を身につけたため、
呼吸に精神集中するという行法には意味を見出せなくなっていたのである。

この疑問を解くきっかけをくれたのは合気道養神館の塩田剛三だった。

矢印マーク 合気道修行―対すれば相和す
不世出の名人と呼ばれた合気道の達人・塩田剛三。
その技の奥義をサラりと書き記してある貴重な本である。
合気道修行は型稽古だけで試合はない。
型稽古だけでナゼ強くなれるのか?
その秘密は氣にある。
読む人が読めば塩田剛三が氣の達人であったことがわかるだろう。
これはまこと奥義書と呼ぶにふさわしい一冊。

塩田剛三の呼吸力についての解説にボクは合点がいったのである。

集中力は、自分の力の出し方でした。そこにさらに、心の問題とリズムが加わって生まれるのが呼吸力なのです。
(塩田剛三『合気道修行―対すれば相和す』-P.120「第2章 呼吸力 呼吸力の原理」)

塩田剛三は自身の体感で得たものをただ直感的に表現していた。

「リズム」

禅の本ばかり読んでいては、ちょっとお目にかかれない言葉である。

次に大切なことはリズムです。緩急のリズムを自分で作っていくわけです。
リズムといっても、一定の単調なリズムではありません。その場その場における最もふさわしいリズムを取らなければなりません。
このリズムを作るのが、結局、自分自身の呼吸です。吸ったり吐いたりというのを、ただ気まぐれに行うのではなく、その場に応じて吸うべきときに吸い、吐くべきときに吐く。それが結局、リズムを生み出すわけです。リズムが呼吸をととのえるのです。
こういった呼吸やリズムを集中力に乗せる。それらがピタッと一体になって発揮されたときに、本当の呼吸力が生まれるわけです。

(塩田剛三『合気道修行―対すれば相和す』-P.120-121「第2章 呼吸力 呼吸力の原理」)

「リズムが呼吸をととのえる」「リズムを集中力に乗せる」

そういえば同じようなことを以前に読んでいたことを思い出した。

矢印マーク 究極のトレーニング
『スロトレ』で有名な筋肉博士・石井直方先生の本。
スポーツ生理学の最新の研究結果をまとめてある。
選ばれているテーマがまた興味深い。
筋肉と老化。筋肉と脳。筋肉と心。
筋肉の科学はスポーツをする人に限らず、
あらゆる分野の人に共通する人間科学でもある。
人間たるもの筋肉で成り立つのでありマッスルよ。

それは腹式呼吸の効果を実験した研究成果についての記事で、
脳の神経細胞に及ぼされる腹式呼吸の影響についての指摘であった。

セロトニン作動性ニューロンは脳全体を冷静な覚醒状態に保つはたらきをします。
~略~
リズミカルな運動がより明確な効果をもつことが示されています。 Aritaら(2002)は4~5回一分のゆっくりとした腹式呼吸によって一定のリズムで腹筋を収縮させると、5~10分で、このニューロンの活動に特有の脳波のパターンが増大すると報告しています。

(石井直方『究極のトレーニング』-P.118-119「「こころ」と運動・トレーニング」)

どうやら『数息観・随息観』も『腹式・胸式呼吸法』も同じ効果を狙ったものであり、
セロトニン作動性ニューロンの活動に効果的な影響を及ぼす目的を持つようだ。

さらに、この実験は面白いデータを提示していた。

同様の効果は、一定のリズムの歩行、ガムなどを噛む咀嚼(そしゃく)運動、お手玉などにも見られます。
(石井直方『究極のトレーニング』-P.119「「こころ」と運動・トレーニング」)

すなわち「坐禅の呼吸の極意はお手玉にあり!」というわけである。

鼻息のリズムに注意を向けたら集中力が高まったというだけの話ならば、
子どものお遊びと一緒ということになり腹式呼吸なんて実にアホらしい。
そういうことであれば『随息観』だけでも十分そうなので、
ひとまず呼吸法の問題は「腹式・胸式呼吸法など呼吸法の本質にあらず」
ということにして切捨御免でまるく収めることにした。

ところが心道流空手師範・宇城憲治の本の中にけしからぬ記述をみつけてしまう。

武術における呼吸は、奥義中の奥義と言われています。呼吸を極めていくことは最終的には武術を極めると言っても過言ではありません。武術における呼吸は日常の呼吸とは異なります。また、一般的胸式呼吸とか腹式呼吸などの呼吸法とも異なります。
(宇城憲治『武術空手の極意・型』-P.208「【Ⅳ】呼吸力」)

「呼吸は奥義中の奥義」なんて言われたら簡単に切り捨てるわけにもいくまい。
さらに「日常の呼吸とは異なる」となれば『随息観』で満足するわけにもいかぬ。
しかも「胸式呼吸とか腹式呼吸などの呼吸法とも異なる」ときてるから、
もうワケがわからなくて蒲団にくるまってフテ寝を決め込みたくなってきた。

ただ当時のボクは“興菩提心”と“ぷっつん”の二つの体験を通過していて、
夢の中で象徴的なメッセージを受け取ることもあったのだけれど、
自分の坐禅修行の進歩している実感なんてさっぱり湧きあがってこない。

だから坐禅修行と言っても「何だつまらん」というのが正直な感想で、
なんかこう坐禅の進歩を確信できるような何かが欲しかったのである。

矢印マーク 武術空手の極意・型
武道の型稽古の重要性を知るならこの本に限る。
宇城師範の強さの秘密を知ることは
武道の奥義へ至る道を知ることなのである。

そのせいもあって仙道やヨーガの本にも手を出すようになってしまったのだけれど、
おかげで呼吸法に関する次の目標みたいなものを見つけることができた。

矢印マーク 密教ヨーガ―タントラヨーガの本質と秘法
本山博先生の著作は大いに参考になる。
これはヨーガのテクニック的なことについて、
まとまった記述のある貴重な本。
参考程度に読むなら、むしろ有益だとおもう。
矢印マーク チャクラの覚醒と解脱
『密教ヨーガ』の解説本。
お値段ちょっと高めですけど…
セットでどうぞ。

それらの本には「呼吸が止まる」とか「身体の外に出る」などと、
にわかには信じがたいことをさもありなんと書いていたのである。

身体の外に出る時は、必ずその前に、いつもよく言うように、下実上平の状態になっていないといけない。こういう状態になって上に抜けていくのでないと、身体に後で故障が起きることが多いのです。クンダリニーが目覚めて、下の方が十分にエネルギーがいっぱいになって、下腹がすごく熱くなって、上の方が空っぽのようになる、そういう下実上平の状態になると、必ず呼吸が止まったようになるといいますか、呼吸をしなくてもいいようになる。そういう状態にならないと決して無念無想にはなれないのです。
(本山博『チャクラの覚醒と解脱』-P.248「サハスラーラチャクラ」)

普通に考えれば呼吸を止めたら人間というものは死ぬのである。
生きたまま死んで身体の外に出るなんてのはオカルト趣味もいいところだろう。

それなのに「呼吸が止まる」だの「身体の外に出る」なんてことを平気で言う
この本の著者が果たして正気なのかボクには判断できなかったわけで、
こういうときの常套手段としては思考を停止するに限る。

たとえばここに「そういう状態にならないと決して無念無想になれない」
という挑発的な記述がなければボクはこのオカルト本をパタリと閉じて、
古本屋へ売りに出していたに違いない。

外に出る時には、今も言ったように、無念無想の状態になっておかないと、ある思いを持ったりなにかして外に出るようだと、~略~今度はいろんな幽霊がみえたり聞こえたり、生霊がみえたりというふうに、いろいろなものに出くわすようになってしまう。そこで、いわゆる巷の霊能者のみえたり聞こえたりするようなことが起きてしまうのですが、そういうところで止まってしまうと、いつまでたっても、ただの霊能者で終わって、悟ることができない。まず下実上平の状態で、息が止まり、意識が止まり、身体の意識がなくなって、無念無想の状態になって外に出られるようになると、間違いなくずーっと高いところに行けるようになるのです。
(本山博『チャクラの覚醒と解脱』-P.249「サハスラーラチャクラ」)

たしかに霊能者は「お花畑でこんにちわ」みたいなことしか言わないものだけれど、
この記述も間違いなくずーっと遠いところに逝ってしまっているような印象がある。

矢印マーク 秘法超能力仙道入門
この本の記述は古い文献や自身の実体験に基づいている。
何かと参考になるので手元に置いておくといいかもしれない。

しかしちょっと考えてみれば「生死透脱さもなくば酔生夢死」という禅の発想も、
脳の血管の二、三本はプッツリいってるようなものでそう大差ないことに気づいた。

ボクはここにきて少しだけ信じてみてもいい気分になっていたのだと思う。
そもそも信念はこんなふうに想いはじめたときから確信に変わってゆくものだ。

そうかも知れないし、そうでないかも知れない…。

そして最期に振り返ってみれば理論や動機なんかはどうでもよくなっていたりする。
なぜなら、この信念を裏付ける確証を随所に見つけるようになるからだ。

以下は仙道の本にみつけた証拠のひとつ。

(1)~(4)までの段階(注:行のすすんだ各段階で身心に起こるいくつかの現象)ができた人の中には、胎息(たいそく)という状態が出現することがある。胎息とは、口や鼻からの呼吸がまったく止まった状態で、同時に胃腸などの消化吸収作用も停止する。ちょうど母胎の中にいたときの状態が出現するのでこの名がある。ただし、母胎のときのような栄養の補給源がないから、直接全身から天地の気(宇宙エネルギー)を取り入れ、エネルギー源にする。このとき、不識神の働きにより、先天の気が発動し、衝脈を突き上げ、頭頂を開かせる。
(高藤聡一郎『秘法!超能力仙道入門』-P.213-214「大周天の実際の姿」)

この胎息なら「胸式呼吸とか腹式呼吸などの呼吸法とも異なる」だろうし、
もちろん「日常の呼吸とは異なる」ことになりそうだ。というか…もはや呼吸じゃない。

矢印マーク 神の詩―バガヴァッド・ギーター
世界中で聖書の次に読まれているという聖典。
仏教とキリスト教をつなぐ架け橋となりうる。

さらに聖典までもがこの確信へのダメ押しを迫ってくる始末。

恍惚境に入るため呼吸を支配する者もいる
呼気(プラーナ)を吸気(アパーナ)に また吸気を呼気に捧げ
ついに呼吸を全く止めて恍惚境に入る

(バガヴァッド・ギーター4-29)

それから再度、心道流空手師範・宇城憲治の本を読み返して絶句するのであった。

武術空手の場合、力に頼らない威力、動き、スピード、およびゼロの力、居付きのない動き、瞬発力などが求められます。その大本は呼吸を根源とする腹力、背力にあります。口で吸う、吐くの段階からスタートし、さらに身体での呼吸法を身につけ、心身の調和を呼吸によってはかれるようにすることが重要です。呼吸を根源とした強い腹力と背力そして鳩尾のゆるみがあってこそ、剛柔の身体を創ることができ、武術空手の絶対条件である攻防一如の術技が可能となります。
(宇城憲治『武術空手の極意・型』-P.210「【Ⅳ】呼吸力」)

ここでいう「身体での呼吸法」とは仙道の本の記述と一致するのかもしれない。
それは「直接全身から天地の気を取り入れエネルギー源とする」という記述で、
これはおそらく“胎息”のことを示唆しているようだと気づいた。

さらに「呼吸を根源とした強い腹力と背力そして鳩尾(みぞおち)のゆるみ」
を手に入れるなら、それは可能になると宇城師範は指摘しているのである。

もう疑う余地のなくなったときに発する問いなんてものはさしずめ決まっている。

一体どうやったらそれを実現できるのか?

幸いにして、この希求の答えは意外にもあっさりと与えられた。
禅の本質は心随観にあることを教えてくれたM・ベインの著作中にあったのである。
その名も『チャクラ開発呼吸法』。そのものズバリなネーミングがあやしくて好い。

矢印マーク 神癒の原理―ヒマラヤ大師の教え
M・マクドナルド・ベイン。
ボクに師があるとすれば彼の著作だとおもう。
仲里誠桔氏の日本語訳したM.ベインの本は、
ボクの知る限り四冊あり、そのすべてを熟読した。
珍しく実践的な行法を録してあるのがこの本。

この行法を読んでいたボクの身体に武者ぶるいによく似たうねりが走り抜けた。
わかりやすく言うと「ビビってオシッコをちびりそうになった」わけである。

貴下は自分でこのエネルギーを放出して発揮するようになるまでは、自分の中にその力があろうとは思ってもみないはずである。これが大師方が行使される力なのである。この神秘は秘密として護られてきて、ごく少数の者にだけ明らかにされた。毎朝日の出の時刻と、毎夕日没時に実修するならば、一年後には、もし正しく実行し、正しい想念を持(じ)するのであれば、現在の貴下には信じえない多くのことをなしうるであろう。
(M・マクドナルド・ベイン『神癒の原理』-P.99「3…クンダリニーのコントロール」)
この力をコントロールすることができれば五大をもまたコントロールすることができる。貴下は自分の欲することを成就する力を自分の中に獲得したのである。
(M・マクドナルド・ベイン『神癒の原理』-P.97「2…チャクラの開発と呼吸法」)

文中の“五大”というのは古代から地・水・火・風・空で表されてきたもので、
中国思想でも火・土・金・水・木の五行説として知られている。

この五大ないし五行は宇宙の運行を司る生命力の源であり、
気についても心・脾胃・肺・腎・肝の気と五種類に大別できるそうだ。
ちなみに気をプラーナと呼ぶヨーガにおいても五風として区別されるらしく、
なんでもプラーナ・アパーナ・ヴヤーナ・サマーナ・ウダーナなんだとか。
どうやら、それぞれを識別することは至難の業と察する次第である。

われらが大乗仏教において最も人気の経典・般若心経に五蘊とあるのもこれ。

照見五蘊皆空 度一切苦厄

「たしかに五大を制御できたら現世利益だって思いのままかもしれないけれど、
そんなことは空しいことだと見抜いたときに一切の苦しみから解放される」
というのが般若の教えなのである。

つまり、とりあえず五大をコントロールできなければ話にならないわけで、
その意味でこの本に紹介してある行法は“般若心経秘鍵”に他ならないわけだ。
どうだい、禅者なら武者ぶるいが止まらなくなってくるんじゃないかな?

ただし、ボクはこの行法をそっくりそのまま実践したわけではない。
それはM・マクドナルド・ベインの指示に反することでもあったからである。

以上の行法には神経系統を浄化する呼吸が先行しなければならないのであるが、もし貴下が講習会などで教えを受けたことがないのであれば、この行法を始める前に筆者と連絡を取り合わなければならない。
(M・マクドナルド・ベイン『神癒の原理』-P.94「2…チャクラの開発と呼吸法」)

「連絡を取り合わなければならない」とはよく言ったもので、
この本の著者はもとより翻訳者までもがすでに死んでいたのである。

しかも、M・ベインの行法ではいくつかのチャクラに精神集中してゆくのだけれど、
そんな行法は笑止千万。禅者のボクにはふさわしくない。
チャクラなんてものに精神集中したあかつきには祖師方に申し訳が立たぬ。
すなわち「拙者、坐禅の基本は“只管打坐”と心得える」というわけである。

そこでボクは行法のエッセンスを抜き出して独自の行法を編み出すことにした。
おそらくボクの禅者としての矜持(きょうじ)はM・ベインも理解してくれるはずなのだ。

深い霊的黙想(コンテンプレイション)によって、無限の智慧、即ち、頭上の母性原理に対してキリスト意識が開かれ、それによって同じ結果が得られることもあるので、大多数の人々には時としてはその方がはるかによい方法である。瞑想(メディティション)と聖なる推理(リーズニング)は信念を強化する。この強化された信念があらゆるものの鍵である。
(M・マクドナルド・ベイン『神癒の原理』-P.100「3…クンダリニーのコントロール」)

そしてついに瞑想と聖なる推理によりM・ベインの行法の本質を見きわめた。
ボクはそのとき「腹式・胸式呼吸法」の本質をも見さだめていたのである。

このバランスのとれた力はスシュムナー(脊柱の中の不可視のエネルギーの管) といわれているものの中を通って脊柱のチャクラを昇っていく。スシュムナーは頭の円頂の中で終り、そこであらゆる力(パワー)が意志のもとに集中される。円頂の中のこのチャクラは千の花弁の蓮華といわれ無限の智慧の光線(レイ)に対して開かれる。
(M・マクドナルド・ベイン『神癒の原理』-P.97-98「2…チャクラの開発と呼吸法」)
右の鼻孔の背後にはピンガラがあり、これは陽性の電子力(フォース)を取り出して脊柱の右側に下してゆく。左鼻孔の背後にはイダーがあって陰性の電子力(フォース)を脊柱の左側に下してゆく。これらの力は、開発されつつある特定のチャクラの中でバランスがとられてスシュムナーの中を上昇してゆく。これらの神経は目に見えないし、解剖学者にも知られていないが、それがなければ人は肉体の中で生きることはできないのである。
(M・マクドナルド・ベイン『神癒の原理』-P.98「2…チャクラの開発と呼吸法」)

要約してみるとM・ベインは『チャクラ開発呼吸法』をこう解説しているようだ。
この行法は脊柱の中のスシュムナー上にあるチャクラを開発するもので、
そのためには左右の鼻孔背後にあるイダー、ピンガラから気を取り入れ、
気の陰陽のバランスをとればいい。

つまり要点は左右の鼻孔の背後には重要な気道が走っているので、
それを呼吸によって刺激しようというわけである。
坐禅の「腹式・胸式呼吸法」は鼻から息を吸うことになっているけれど、
それもおそらくこのためなのだろうとおもう。

それではボクの実践してきた「真実の呼吸法」を紹介しよう。

真実の呼吸法
一、右鼻孔に指を当てて塞ぐ。

二、空いている左鼻孔から息を思いっきり吸い込む。

三、息を止めて左鼻孔の奥にある気道から真直ぐ下に息を降ろす。
(気道のわからないうちはイメージで降ろす)

四、会陰(肛門と性器の真ん中にある経穴)のあたりまで降ろしたら、我慢の限界まで息を止め続ける。

五、我慢の限界のきたところで右鼻孔の指を離し、今度は左鼻孔を指で塞ぎ、右鼻孔から息を吐き切り、それから、おもむろに思いっきり息を吸い込む。

六、息を止めて右鼻孔の奥にある気道から真直ぐ下に息を降ろす。
(気道のわからないうちはイメージで降ろす)

七、会陰のあたりまで降ろしたら、我慢の限界まで息を止め続ける。

八、我慢の限界のきたところで左鼻孔の指を離し、今度は右鼻孔を指で塞ぎ、左鼻孔から息を吐き切る。

九、以上を一完全呼吸セットとする。

注:これは朝の行法。夜は左右逆から。
図・布施仁悟(著作権フリー)

ただし、この呼吸法はヨーガの呼吸法の技術としても当然のごとく存在していた。
ヨーガの呼吸法は一般に「プラナヤーマ」として知られ、真実の呼吸法は、
ナディを浄めるプラナヤーマ(ナディ・ショーダン・プラナヤーマ)とよく似ている。

それは本山博の『密教ヨーガ』で第一段階の呼吸法として紹介してあるもので、
彼にとっては基本中の基本の呼吸法らしい。だから、何のことはない。
「真実の呼吸法」と言っても基本中の基本にすぎないのである。

たしかに伝統的な坐禅作法のように左右両方の鼻孔で呼吸するよりも、
片方ずつ塞いで呼吸した方が合理的だとボクも思う。当たり前の話だったのだ。

衝脈の図
イダー・ピンガラとはこの衝脈のことである。
当初は脚部と背中の気道は認識できないけれど、
行が進めば、いずれ必ず明確になってくる。
イダー・ピンガラと衝脈の関係を解説した記事
石田秀実『気・流れる身体』-P.41「2流体としての身体」

この真実の呼吸法を続けてゆくとイダー・ピンガラ(特に身体前面の二本の衝脈)
が、自分の身体のどこを通っているのかがわかってくる。

最初は上図の衝脈のうち脚部や背中の気道は認識できないはずだけれど、
真実の呼吸法を続けるにつれて、それも次第に明らかになってくるものだ。
そのためにはまず身体前面の二本の衝脈にしっかり気を流せなければならない。

もちろん、このイダー・ピンガラに気を通して掘り起こしてゆくにつれて、
身体の中心を真っ直ぐに走る体軸(スシュムナー・中心線)もあらわとなってくる。
坐禅の姿勢だって次第に矯正されていくことは付言するまでもない。

ちなみに先に仙道の本からの引用で高藤聡一郎が衝脈と言っていたのは、
イダー・ピンガラではなくスシュムナーのことで、そのへんはちょっと紛らわしい。

振り返って衝脈の図をよく見てみれば「強い腹力と背力そして鳩尾のゆるみ」
という心道流空手師範・宇城憲治の言葉の意味もおのずからわかってくるだろう。
おしなべて坐禅と武道の呼吸法の眼目は衝脈を掘り起こすことにあったのである。

矢印マーク 気・流れる身体
気感のない人の書く気の本。
嬉しくなって衝動買いしてしまった。
う~ん。何とも言えません…。

ただし、身体のできていない禅者にとって真実の呼吸法は刺激が強すぎるため、
M・ベインの本の中には、こんな警告がある。

最初は一完全呼吸セット以上はしてはいけない。

真実の呼吸法は一時的であれ姿勢を矯正する効果もあるので、
坐禅の補助としても最適な呼吸法なのだけれど、むやみにやってはいけないらしい。

となれば坐禅の黄金時間に突入した時点でおもむろに行ずるとよいだろう。
伝家の宝刀は抜くタイミングが肝心というわけである。

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